第5回ユーラシアフェスティバル
                       3月30日(日)に開催決まる

テーマ国は「ウクライナ」

ウクライナの素顔(1)

 さる12月10日開かれた理事会兼常任理事会で、第五回ユーラシア・フェスティバルを3月30日(日)、名古屋市千種区の「めいきん生協 生活文化会館」で開催し、テーマ国を「ウクライナ」にすることが決まりました。そのウクライナとはどんな国なのか、留学生のアンドリイ・ボドリヤーカさんとリュドミーラ・ビスピヤトコさんに語っていただきました。

 大多数の日本人にとって、ウクライナという国は馴染みがないかもしれません。が、一部の人は多分、棒高跳びの選手、セルゲイ・ププカやサッカー選手のアンドレ・シエプチェンコについて知っているでしょう。

 この国は以前、ソ連の一部であり、その当時(1986年)、チェルノブイリ原発の惨事がありました。これは世界的なニュースなので、みなさんもご存じでしょう。

 さて、前置きはこのくらいにして、まず、地理的状況から始めましょう。ウクライナは、東ヨーロッパに位置し、西はポーランド、スロベニア、ハンガリー、モルダヴィアに国境を接し、北はベラルーシ、東はロシア、南は黒海とアゾフ海に囲まれています。

 国土の大半は平野です。西にはカルパチア山脈が広がっています。また、南のクリミア半島には、あまり高くないクリミア山脈が北風から半島を守り、そのお蔭で「休養」に有益で快適な亜熱帯気候がもたらされています。ソ連時代には、この大きな国の隅々から夏の休暇を過ごすためにやって来ました。そこには、ソ連政府の要人のための豪華な別荘がありました。

 ソ連時代、ウクライナは「全国の穀倉」と呼ばれていました。つまり、農業生産物、特に穀物は、ウクライナで栽培され、食糧として全ソ連に供給されました。ウクライナの土壌はとても肥沃で、世界最大の黒土の耕地は農業に最適です。

 また、鉄鉱石やマンガン鉱の埋蔵量も大きく、石炭やウランの鉱床も大きい。

 しかし、ソ連崩壊後、経済状態が極度に悪化し、未だに回復できません。だから、天然資源が豊富だといっても、採掘の効率は非常に低く、ほとんどの鉱山では設備や施設が老朽化し、しばしば人的災害が起きています。これはソ連の否定的な遺産なのです。

 しかし、ウクライナがいつもソ連やロシアの一部であったわけではありません。今日のウクライナの首府キエフは、古代東スラブ国家「キエフ・ルーシ」の名で呼ばれる国の首府でもありました。この国は十世紀から十四世紀まで存在しました。

 その初期、ヤロスラブ賢明王の治世の十一世紀、最も発達したヨーロッパの国々がキエフ・ルーシと外交関係を結んでいました。ヤロスラブ公の娘はフランス、スエーデンなどの宮廷に嫁ぎました。この事実は、ルーシが当時、最も発達した国の一つであることを証明しています。

 しかし、十三世紀にモンゴルタタールがキエフ・ルーシを襲ってきました。ルーシ諸侯は懸命に防戦しましたが、結果は敗北で、みんなモンゴルに隷属させられ、破壊され、強奪され、毎年、膨大な年貢を払う羽目になりました。だから、この地域の国家は数世紀にわたってヨーロッパ諸国に比べて発展が阻まれました。「モンゴルの軛(くびき)」の代価です。

 十四世紀からウクライナの国土はリトワニア、ポーランド諸侯によって奪い返されました。再び文化的政治的発展が始まりました。しかし、政治権力がポーランドの大地主の手にあったため、ウクライナの文化の発展は遅々としたもので、非常に困難なものでした。

 ポーランドの公然の支配とウクライナの人民の利益の抑圧は、農民とコサック(地主から逃れてウクライナ南部のステップに移住した農民)の蜂起を引き起こしました。コサックは平時には、モンゴルタタールの子孫のクリミアタタールの来襲からウクライナ防衛に携わっていました。だからコサックは侮りがたい軍事力でした。

 ボグダン・フメリニツコを頑とするポーランドに対する蜂起は、一六四八年から五四年まで続きました。ボグダン・フメルニツコ自身は中地主でした。だから、王統でない独自の国家を創ることはできませんでした。
それがその時代の体制でした。

 蜂起が終わった後、1654年、ウクライナはロシアに併合されましたが、ほとんど対等の国として存在しました。

ウクライナの素顔(2)

弾圧はねのけた文化と伝統
   今も残る古代の習慣と祭り
       占いで未来の夫の名を知る

 やがて、一世紀半の間にロシアは、益々ウクライナの政治的、文化的権利を抑圧するようになり、1815年までにウクライナの国土はロシア帝国の一構成分子になってしまいました。体制は、ポーランドの支配時代より悪くなりました。

 20世紀にはまた、ウクライナ国家の復活の試みがありました。1917年のロシア革命でポリシエビキが権力を奪取した後、ウクライナではしばらくの間、共産主義は広がりませんでした。キエフには四年間、民族国家の安定した権力が存在したのです。

 しかし、この四年間は内戦が続き、1918年にはドイツ軍が、1920年にはポーランド軍がいました。結局、ウクライナはボリシェビキに占領され、1921年ソ連の一部になりました。モンゴル・タタール、ポーランド、ロシアの制圧の後、ソビエトの番がやって来たのです。

 しかし、ウクライナへの何世紀もの圧政にもかかわらず、自己の同一牲意識と独立への願望は残りました。それは、1991年のソ連崩壊の後、実現したのです。

 ソ連によって人為的に引き起こされた飢饉(1932年から33年の間に、約700万人が餓死した)やウクライナの文化的、国民的エリート達が多数追放され、弾圧されたにもかかわらず、文化と伝統は残りました。

 今度は少し、文化に目を向けてみましょう。ウクライナ、ロシア、ベラルーシは東スラブ語族を形成しています。だから、言語、習慣、宗教や儀式は三国間で多くの点で似ています。例えば、ウクライナ人は一度もベラルーシ語やロシア語を習わなくても、ベラルーシ人やロシア人の話すことは大体分かります。
 古代スラブ民族の信仰は、日本の神道に良く似た多神教でした。最高神と様々な自然現象や人々の生活を司る多くの神々−雷の神、地の神、水の神などがいました。今日までウクライナでは、異教の神の祭りが残っています。そのうちの幾つかは、やがてキリスト教の祭りになりました。イワン・クパルの祭りは異教の祭りとして残り、今でも村々で祝われています。

 その祭りは夏6月に行われます。若者や娘たちが森を歩き拘り、シダの花を探します。その花を探した者は、自分の幸せを見つけると考えられています。シダには花はめったになく、胞子だということはみんな良く知っているのですが。

 さらに娘たちは花輪を縮んで川の流れに投げ入れます。もし花輪が沈めば、それを編んだ娘は間もなくお嫁に行くというわけです。イワン・クパルの夜は、みんなが集まって歌を歌い、ダンスをし、焚き火の上を跳ぶのです。

 異教の神の時代から、占いや種まき、キリスト教の祭りにも、しばしばつながっている祝い歌を歌いながら近隣を回るという儀式が残っています。例えば、12月13日のキリスト教の祭りアンドレ・ペルバズバンには、よく占いをしますし、新年も同様です。

 占いは非常に沢山あります。基本的には、その目的は娘たちの結婚を予言するという試みです。未来の夫の名前や容貌を知るというものです。次は、広く知られている占いの一つです。

 眠る前に櫛で髪を硫かし、その櫛を枕の下に置きます。翌朝、目を覚まして櫛に絡まった髪の色を調べ、もし淡い色だったら、未来の夫は淡い髪の毛の人というわけです。もう一つは、紙に大勢の男性の名前を書いて、束ね、それを枕の下に置きます。目覚めた時、名前を書いた紙を一枚引っ張ります。それが未来の夫の名前というわけです。

ウクライナの素顔(3)

 ボルシチはウクライナが起源
        西と東で大違いの文化や言語

 新年には、時計が12時を打っている時、通りに出て最初に会った人に名前を聞きます。鏡占い、トランプ占い、灰占い、指輪占いなど全てを数え上げることはできません。

 旧暦の新年に種を蒔きます。普通、子供たちは知り合いの家や知り合いでない人の家を訪ね回ります。彼らが「種を蒔くぞ、風で種を飛ばすぞ、新年おめでとう」と言いながら、麦を蒔くことで種まきは終わるのです。この儀式は来るべき年の豊穣をもたらすと考えられています。子供たちは種まきで小銭やお菓子をもらいます。

 クリスマスには子供たちはまた家々を回ります。そして「カリャールキ」(幸福な暮らしと豊かさ、健康を願うクリスマスの特別の詩)を読むのです。

 おそらく多くの人はウクライナの料理とその特徴について知りたいことでしょう。伝統的なウクライナ料理は多種多様です。昔からウクライナは農業国で、農業生産量が世界一であることと黒土の肥沃なことで知られています。

 だから料理には沢山の挽き割り(小麦、蕎麦、ライ麦、黍)、小麦粉、野菜、青物などが使われます。ウクライナ人は鶏肉、兎肉、牛肉、鴨肉、七面鳥肉、豚肉などの肉を食べます。ロシアや旧ソ連邦の国々では「ラード好き」ということがウクライナの国民性だと考えられています。

 ウクライナ人は肉ほど沢山は食べませんが、魚も好きです。茸、蜂蜜、、牛乳、ケフィール ハ発酵乳)、ヨーグルトは誰もが好きです。一番有名なウクライナの伝統料理は「ポルシチ」です。多くの人が、これはロシアで始まったと誤解しているようです。

 なるはど、今では多くのロシア人がポルシチを作りますが、それでもやはり、ポルシチはウクライナからロシアに入ったのです。ボルシチはその色に特徴のあるスープの一種です。それは、中にスビヨークラ(赤い砂糖大根)が入っているので赤いのです。

 また、ポルシチを作るには骨つきの肉、ジャガイモ、人参、クマネギ、トマトまたはトマトジュースが欠かせません。時にはスカンポが加えられます。これは「若いポルシテ」と言われて、キャベツなしで煮られ、香り付けにラードが加えられることもあります。

 挽き割りからは様々なお粥が作られます。小麦粉からはパン、ピロシキ、ピローク(ロシア風パイ)、ワレーニキ (小ピロシキ)、ペリメニなどです。

 面白いことに、ウクライナの西部と東部では、言語も料理も文化も、全体としてとても違っています。これは歴史的理由によってもたらされました。西ウクライナは何世紀もの間、西隣の政治支配を受けました。

 同じ時期、東ウクライナはロシアの支配下にありました。彼らの多くは、今日でもウクライナ語がよく話せません。現在も東ウクライナと西ウクライナの間で文化的、言語的な衝突が続いています。西ウクライナは東ウクライナをロシア化されたと考え、東ウクライナは西ウクライナのことを民族主義的と考えています。この断絶を克服するのに、まだまだ時間がかかりそうです。(終)
 
 


データ「ウクライナ」

ウクライナは、旧ソ連邦を構成していた共和国の一つで、ソ連崩壊後に独立しました。ウクライナという名称は、「辺境」を意味するロシア語の「クライ」から作られたもので、既に十二世紀ごろから俺われていたと言います。

 国土の面積は約60、4万平方キロメートルで、人口は約5200万人。首府はキエフで、ハリコフ、オデッサなど25の州からなっています。

 国土の約81%を肥沃な黒土で覆われ、古くから穀倉地帯として知られていました。小麦、ライ麦など主要穀物の生産は、旧ソ連邦全体の20%を占めていたと言われています。ウクライナ人は、ロシア人、ベラルーシ人とともに東スラブ族に属し、他の東スラブ族と比べて身長が高く、陽気で歌や踊りを好み、コサック・ダンスや民族楽器「バンドゥーラ」(リュートに似た撥弦楽器)が有名です。

 民族構成は、ウクライナ人74%、ロシア人21%、その他(ユダヤ人、ロマ人など)5%。

 国家としての歴史はロシアより古く、九世紀末にキエフを中心とする統一国家を形成し、十世紀末にはキリスト教(東方正教)を受入れました。