第58回総会記念講演 「最後に残った現役兵として」
 

 
                講師:横山周導氏
                         NPO法人ロシアとの友好・親善をすすめる会理事長

 6月16日、愛知県連第58回総会に先立ち、午前11時から「最後に残った現役兵として」と題して横山周導氏による記念講演が行われました。

<講演概要>
 昭和18年3月に京都大谷専修学院を卒業するとすぐに徴用令が来たので、工場で働くよりは満州へ行って布教活動をしようと思ったわけです。当時は大陸へ渡ることは若者の憧れでした。ハルピン東本願寺布教者訓練所に入り、訓練所で半年訓練を受けました。そして吉林の開拓地にある布教所へ配属されるわけですが、先に2年間の兵役を済ませようと青年学校に入り、19歳で入隊し、満ソ国境の町・暉春へ送られました。軍隊での生活は厳しいもので、訓練に出ている間に私物検査をされ、私物箱の中の服が曲がっていたり、洗濯が十分でないと荷物をひっくり返され、柱につかまってセミの真似をさせられたり、各班を回って自分は今日こういうことで罰を受けましたと言って回らされたり、夜中みんなが寝ている時に起きてペチカの前で腕を伸ばして銃を持たされたりしました、また軍隊というのは物の員数を合わせるというのがうるさくて、足りないと怒られるので、盗ってきてでも数を合わせるということが日常茶飯事でした。食事の時は食器を洗って返すわけですが、もしそれが炊事班の兵隊の気に食わないと、厨房の掃除をさせられたり、大釜の水汲みをさせられたりしました。野外演習は零下20〜30度の中で行われ、どのくらいで凍傷になるのかを教えられました。

 終戦を知らずに8月24日まで隊にいて、本部へ行った時に終戦になったというのを聞いてきて隊に戻ってそう言うと、誰も信用してくれず「お前はスパイか」と言われ、もうひとり別の兵隊が本部へ行って確認して、ようやく戦争が終わったことがわかり、26日に山で軍隊は解散しました。私たちは満州人の百姓に変装してもと自分たちがいたところを目指して延吉まで5日間歩きました。ところが5人で歩いているところを後ろから「おい日本人!」を言われ思わず振り向いてしまって、捕まりました。その後10日間ポシエットまで歩かされましたが、その途中、道のあちこちで日本の兵隊が死んでいる光景を目にしました。それと開拓団の人たちが逃げていくのですが、どこへ行ったらいいのかわからないんです。小さな子供の手を引いて、背中に乳飲み子を背負って、荷物を抱え、ボロボロの服を着て、ほとんど裸足同然で歩いていて、私たちに「子供を助けてくれ」と言うのです。その人たちがどうなっただろうかと思うと今でも胸が痛みます。

 ポシエットでひと月、テントを張って待たされます。日本では8月15日に戦争が終わったと言われていますが、ソ連ではそうではなかったんです。ソ連は北海道へ上陸しようとしていたのです。ところがアメリカとの関係でそれが難しくなり、8月26日ソ連が北海道へ侵攻しないことの見返りに、日本人捕虜をロシアで使うということになりました。また日本政府も内地の食糧事情、思想経済事情を考えるとソ連の庇護の下に満鮮に土着させて生活を営むようソ連に依頼するとの文書が8月26日に日本側からソ連に出されています。ソ連側としても60万人の捕虜を受け入れるための準備が出来ておらず。私たちは1か月間待たされたわけです。

 その後私たちはコムソモーリスクへ連れて行かれましたが、そこにはドイツ兵がいて私たちは彼らと入れ替わりで、ドイツ兵は帰って行きました。そこで2年間バム鉄道建設に従事しました。鉄道の敷設という仕事でしたが、原っぱや密林に道路を作ってそれから鉄道を作ります。道を作るといっても向こうは非常に湿地が多いので湿地に7mの木を並べるんです。始めのうちは山が近くて木が近くにあったが、だんだん遠くなり大変になりました。60万の抑留者のうち6万2千人がケガや病気でなくなりました。私は幸い怪我もせず、病気もせず無事に帰ってくることができました。非常に辛かったのは零下60度の夜間作業、10トンの自動車に木材を積む仕事です。7mの木を、八番線を使って持ち上げるのです。危険な作業をするにもソ連側は何もくれないので、自分たちで工夫してやるしかありませんでした。他にも夜間作業で鉄橋のセメント打ちもやりました。気温が一番低い時は零下70度でした。まつげが凍って目が見えなくなります。

 幸いに25歳の青年25人で青年行動隊を作って、地方の官舎を作る仕事をしていたとき、私たちの隊から20人帰国してもいいと言われ、青年行動隊から10人、その他の975人から10人が帰ることになりました。青年行動隊の隊長はハバロフスクへ勉強に送られていたので、私が副隊長をやっていて、副隊長以下10名ということですんなり帰ることができました。

重労働は450gのパン、仕事ができない人は250gでしたが、私たちはじゃがいも5つでも食べない日はありませんでした。ちょうど2年で帰ってきました。舞鶴で赤飯と白いご飯が出されたとき、胸が詰まって食べられませんでした。重労働や汚い仕事もさせられて、どんな仕事もできるようになりました。

 帰ってから教師をやっていたが、やめる頃になって全国抑留者補償協議会の斎藤六郎さんからお呼びがあって入り、翌年ハルピン、ウラジオストク、ナホトカに行きました。ウラジオストクには280人のお墓があり、そこへ墓参に行ったとき、一人の奥さんがなかなか墓の前を離れようとしません。結婚してまもなく夫が召集され、シベリアで亡くなり、38年間姑のそばで子供を連れて、どれだけ苦労し、悲しいことがあったかを思うと、向こうでお亡くなりになった方々に対して、私ができることは詣る以外にないと思いました。

 その後毎年墓参に出かけていますが、あるときイワノフカ村で日本人抑留者の墓がないか尋ねていたら、イワノフカ村の村長が斎藤会長に「あなたはわたしの村のことを知って来たのか、知らずに来たのかと」と聞きました。1919年3月22日、シベリア出兵した日本軍はイワノフカ村で村を焼き討ちにし、300人を殺しました。その中で36人は家の中に入れて外から火をつけて生きたまま焼き殺したのでした。その村へたまたま日本人墓地がないかと聞きに行ったというわけです。「何も知りません」と答えると、村の裏にある追悼碑を見せてくれました。

 その後日ロ共同でロシア人と日本人を弔う慰霊碑を作り、毎年お詣りに行っています。今年も7月にハバロフスク、8月にイワノフカへ墓参に行きます。」

<資料>




   

第58回日本ユーラシア協会愛知県連合会総会のご案内
     
日 時
5月16日(日)11:00〜12:30   記念講演  講師:横山周導氏  演題「最後に残った現役兵として」
        13:30〜16:40 音楽の調べ  松坂仁さん(フルート)、樋渡紗矢香さん(ピアノ)
                  総会
        16:50〜17:50 懇親会       
場 所
愛知民主会館2F
参加費
ユーラシア協会会員は無料  一般の方で講演をお聞きになりたい方は500円 
弁 当
弁当の注文を受け付けています。6月13日(木)までに事務局へお申し込みください。
  懇親会
総会終了後、懇親会を開きます。参加費300円(お茶とお菓子とワインをご用意いたします)
申込先
日本ユーラシア協会愛知県連合会 電話052−526−1150

メール eurasia_aichi@yahoo.co.jp