名古屋ロシア兵士墓地 (再発見から今日まで)
   
 1990年末、名古屋市千種区平和公園内の旧陸軍墓地の一郭で、明治37〜38年(1904〜5年)の日露戦争で捕虜となり、名古屋収容所で亡くなった15名のロシア兵士の慰霊碑が発見されました。発見者は、日本ユーラシア協会(当時:日ソ協会)会員の杉本達也氏で、奇しくも氏自身が戦後旧ソ連邦カザフ共和国南部で抑留生活を体験し、慰霊碑のロシア語が理解できる方でした。

 その後、ロシア人墓地についての調査が行われ、名古屋ハリストス正教会が、知多市の写真館主が撮影した当時(明治38年頃)の写真5枚を見つけました。それによると、現在の東区新出来町東公園近くの陸軍墓地内に、煉瓦塀に囲まれた3bほどの高さの慰霊塔が立ち、その上には十字架が輝き、回りには15基の墓碑が並んでいました。

 慰霊碑には、ロシア帝国の国章である「双頭の鷲」が刻まれており、ロシア語で 「ここに1905年に亡くなった15名のロシア人捕虜が埋葬されている。神よ、天国で彼らの魂に安らぎを与え給え。この碑は、同僚(戦友)によって建てられたものである」と刻まれています。個人の墓碑は、1990年の発見当時には1つしか残っていなくて、戦災あるいは平和公園への移転時の混乱のなかで失われたものと考えられます。

 日本ユーラシア協会愛知県連合会は、まず慰霊祭を行いたいと考え、1991年4月11日に、名古屋ハリストス正教会など関係者とともに、当時の在大阪ロシア総領事館からソンツェフ副領事とソローキン副領事を招いて、「遠隔の地で亡くなったロシア兵士の霊を慰め、日露両国の平和の架け橋としたい」と願って、第1回パニヒーダ(慰霊祭)を盛大に営みました。その後、ハリストス正教会や在大阪ロシア総領事館のお骨折りで、15名の兵士の名前が全部判明するという嬉しい成果も生み出されています。

 日本ユーラシア協会愛知県連合会では、多くの市民の心温まる募金も得て、1992年2月に墓地の修復・再建に着工し、93年4月4日にはコマロフスキー在大阪ロシア総領事を招いて竣工式を兼ねた第3回パニヒーダ(慰霊祭)を執り行いました。

 以降毎年、平和公園の桜が咲きそろう4月の第1日曜日をパニヒーダの日とし、広く市民に参加をよびかけ、日露両国民の相互理解と両国の平和的関係促進の礎となるよう、努力してまいりました。

 2003年の慰霊祭後、在大阪ロシア総領事館より「墓碑のまわりに飾りを施したい」との申し出があり、国(土地所有者)、名古屋市(管理者)への手続きを経て、2004年2月に竣工し、日露戦争百年をむかえる同年の慰霊祭で披露されました。

今年は、1991年の第1回慰霊祭より数えて21年目にあたる今年、日露不再戦・世界平和への決意を新たにしたいと存じます。

2011年4月