小川信也
ウクライナについて日本で有名なのはあの チェルノブイリの原発事故ですね。ウクライナでは あの時日本から援助があったことは知られており感謝しているようですが その話になると「あれはもう終 わったこと」という感じであまり話したくない様子でした。
もっともドニエプル川であまり長い間泳ぐと 危ないなどということは言われたりしましたが。実際に一番被害を受けたのはベラルーシだったようです。また外国で有名なのはサッカーのシェフチェンコです が ウクライナで一番よく知られているのは19世紀の国民詩人タラス・シェフチェンコです。ちょうどロシアにおけるプーシキンのような存在で尊敬されてお り あちこちに彼の銅像があります。
簡単に自己紹介と今回なぜウクライナなどに 行くことにしたのかを話します。私は大学時代にロシアなどを旅行するにつれて旧ソ連のウクライナやアルメニアなどに関心を持つようになり、1999年から 2001年までここのユーラシア協会でロシア語を勉強しました。その後大学院に進んだりしましたが、実際に色々関心のある地域に行って現地語を学び、社会 調査をしたいという思いが強くなり、2004年から現地の大学などで勉強することにしました。その中でウクライナは2005年から2008年までと最も長 い期間滞在し、リヴィウとチェルニヴツィという2つの都市にいました。そしてそこではウクライナ語を中心に勉強していました。ウクライナではロシア語とウ クライナ語が併用されて用いられていますが、私自身ウクライナ語の方により強い興味があったため西側のウクライナ色が強いところを選ぶことにしました。
ウクライナにいて一番強く私が感じたこと は、非常に多様な文化社会が入り交じっているということでした。それはロシア的な色合いが強い地域である東部と南部、ウクライナ的な色合いが強い西部とい うようにおおざっぱに分けられますが、その中でも西部はポーランドやオーストリア、ハンガリー、ルーマニアなど色々な国の影響が見られます。そしてそうし た違いが最も顕著に主に街の造りと建築、人々のメンタリティーに見られます。例えばリヴィウはポーランド的な雰囲気が強く街の中心に大きな広場(リノック 広場)があり、ポーランドのクラコフなどと共通する点が多いです。言葉もウクライナ語でロシア語で話すと嫌な顔をされてしまいます。一方チェルニヴツィは ルーマニア国境に近いこともありリヴィウとはかなり違った感じの街の造りになっています。ここではルーマニア人やモルドバ人、ロシア人、ユダヤ人などが多 いため共通語としてロシア語がリヴィウよりも広く話されていて、ウクライナ語とロシア語はほぼ半々の割合で用いられています。この言語の問題は自分にとっ てウクライナにいる間に直面した最も大きな問題の1つでした。それはロシア語とウクライナ語はお互い非常によく似た言語であるにも関わらず、ウクライナ語 がほとんど通じなかったり、ロシア語を話して嫌な思いをしたという経験が数限りなくあるからです。またウクライナ語はロシア語と比べても非常に方言色が強 いことも問題として大きかったです。
話が少し言語の方に移りましたが、元に戻し て街についてみてみると人々のメンタリティーも多種多様です。それは政治的な考え方から始まって秩序に対する意識の違いなど、本当に1つの国とは思えない くらいです。典型的な話として西側だと割とウクライナもEUに加入するべきだという話を聞きましたが、キエフなど他の地域だとほとんどそういう話を耳にも しませんでした。また西ウクライナの方が人々が個人主義的でドライであるのに比べて、東に行くにつれてだんだんお節介焼き(良い意味と悪い意味で)な人が 増えていくと感じました。 ウクライナにいてこうした色々な地域の違いを知ることができたのは、私にとって最も面白く感じました。
他にも色々話足りないところはありますけれ ども、それは個々の質問に対して答えていくという形で話していきたいと思います。最後になりましたが、ウクライナの特徴的な民芸品としてのピーサンキと滞 在中に撮影した写真を皆さんにお見せします。本日はお忙しい中お集まりいただき、どうもありがとうございました。
質問に答えて:
1.治安はどうですか?
外国人が増えていることと貧富の
差が大きくなっているという理由からだと思いますが、私がウクライナにいた間に少しずつ悪くなっていったような気がします。特にキエフでは夜の地下鉄の駅
周辺など身の危険を感じる時もありました。
2.ウクライナ滞在中 一番おいしいと思った食べ
物は?
キエフ風カツレツですね。鶏肉に
バターの塊をはさんでフライにしたものでナイフできるとトロリと溶けたバターが出てきます。
3.失業率は?
高いと思います。また労働に
関する考え方はまだ旧ソ連風で大学の先生なども給料の未払いが往々にしてあり、副業を持たざるを得ない事情もあります。たとえばウクライナ人の日本語教師
は観光ガイドをするという具合です。また農村から若い人たちがどんどん都会・近隣国へ働きに出てきているので農村が荒廃してきています。西側に出稼ぎに出
る女性も多く、人身売買等も問題になっています。駅では行方不明になった子どもを探す看板をよく見かけました。
4.ウクライナに日本の会社はありますか?
トヨタなどをはじめとした自動
車関係の会社や商社が合弁などを含めて進出しており、120−130人くらいの日本人がいるようです。
5.車はやはりロシア車が多いのでしょうか?
リヴィウにはけっこうトヨタ車がいました。ロシア車も多く、チェコ製の車もあります。
6.鮨屋はありますか?和食は人気がありますか?
中くらいの規模の街ならたいて
い鮨屋があります。でも寿司をたべると少なくても2000円くらいはかかってしまいます。ウクライナの給与水準からすると相当高い食べ物ですね。お客は中
流以上の人たちでしょう。寿司は本格的な日本料理店だけではなく、タイ料理や韓国料理も出すような「アジア料理店(?)」のようなところでもメニューに
入っていてかなりいい加減なものもあります。
7.乞食はいますか?
はい、います。物乞いもみかけ
ましたね。
8.広いウクライナでは移動手段は飛行機ですか? たとえばリヴィウの人がクリミアに行く時などは何に乗って行くのですか?道が便利ですね。 とてもパンクチュアルで す。
9. 天候はどうですか?日照時間は?
冬は1日中どんよりしていま
す。2004−2005年ごろは冬はマイナス25−30度になり、3−4か月雪が降りました。しかし地球温暖化の影 響か近年冬でもあまり寒くならない
ケースもあり、今年の冬は2週間くらいしか雪が降っているのを見かけませんでした。
10.リヴィウにウクライナ語を習いにきた小
川さんに町の人の反応はどうでしたか?
なぜウクライナ語を習うのか」ときかれたでしょう?そもそもここにウクライナ語を習いにくる「留学生」ってどんな人たち?
「なぜウクライナ語を?」とはよく聞かれまし た。旧ソ連の国々に興味がありその言葉を習いたいという風に説明しましたが、なかなかよくわかってもらえなかったようです。アルメニアでもアルメニア語を 習ったのですが同じように説明すると喜んでくれました。地域で見ると大きな違いがありますが、概してウクライナ人にはウクライナ語に対して屈折した思いが あるように感じました。ウクライナ人としての誇りがあり言葉を大切に思う反面、どうしてもロシア語にはかなわないというような気持ちもあるのではないで しょうか。一例として書店にはウクライナ語、ロシア語両方の本が売られているのですが、同じような内容の本でも、ウクライナ語版の本の方が部数も少なく高 いケースが多いのです。
ウクライナ語を習いにきている人はウクライナ からカナダやアメリカに移民した人の子孫が多いですね。その他は中国、ベトナム、アフリカの国々の人たちもいました。その中には国費留学の人たちもいま す。
11.ウクライナでは中国人に対しての感情は どうですか?
1の質問と関連してきますが、難しい質問で す。ただ一般的にどちらかというとあまりよく思っていないという印象を受けました。
12.ウクライナ人が関心を持っている外国は どこですか?
当然、良くも悪くもロシア。それから ポーラ ンドも。ウクライナの西部は昔はポーランド領だったこともあり 近い国なんです。また移民している人も多いのでアメリカにも興味があると思います。日本に ついては ヒロシマ・ナガサキはよく知られています。これは旧ソ連時代にアメリカのした悪いこととして宣伝されたためでしょう。
13.リヴィウはどんな街ですか?
人口は約80万人、大学のある学生町でウクラ
イナ文化の中心地です。ウクライナ語の放送もあり、テレビではロシア語放送でウクライナ語の字幕が出るものもあります。ウクライナ語の本を出版している会
社も多くはこの街にあります。交通手段は電車とトロリーバス、マルシュルートカ(乗合タクシー)。水道事情は悪く、住んでいた寮では給水制限がありまし
た。寮費は食費は別として月に1万円くらいでした。あまり安くありません。私が行った国ではベラルーシが物価が安くて、寮は月2000円くらいでした。リ
ヴィウはウクライナのカトリックの中心です。
14.失礼ですが 物価が安いとは
いえこれだけ長い間外国で過ごすには相当の資金が必要だったと思われるのですが どのようにして資金を作られたのですか?
大学院時代からアルバイトをす
るなどして貯めてきました。
15.今 日本に戻られて すべて
がとても便利に感じられているでしょう。でも「こういう点はウクライナがよかったなあ」と思い出されることはなんですか?
ウクライナでは「時間の豊か
さ」を感じましたね。すべて物事のスピードがゆっくりしてよかったと思うこともあります。「いいかげ
ん」という側面もありましたが、
16.これからはどうされるのです
か?またウクライナへ?
当面は日本にいるつもりで
す。アルメニア人社会の研究も続けたいと思っています。
ただし大学の教員などになる
つもりはなく、日本とアルメニアやウクライナの交流の役に立つような仕事ができたらいいなと思って
います。
小川さんは大学生の時に私のクラス(ロシア 語講座中級・上級)に通っていらした方です。彼の大学にはロシア語の授業がないとのことで熱心に勉強されましたが、教室では物静かな青年というイメージで した。でも今回お話をうかがうと 大学院でも研究室にはあきたらず、現地に行って現状を調査、ウクライナやベラルーシの大学も直接交渉に行って入学を許さ れたり、と非常にタフな行動派であることがわかりました。向こうでの生活は便利な生活に慣れた日本人にとっては困ることやストレスの多いものだったと思い ます。心も体もタフでなければ何年も滞在することはできなかったでしょう。今回のお話もとても面白く聞いたのですが この他にも警察に拘留されたり、スパ イじゃないかと疑われたりした経験もおありとのこと。会場からは「今度はそういう話が聞きたい!」という声もありました。