第77回ロシア語サロン    2009.9.6

リヴォフとウクライナにおける日本文化

                                                               
イゴル・ゾリーさん
お話をするにあたり、服部さんとみなさまに今日ここにお招きいただいたこと、お忙しい中こうして私の話を聞いてくださることに心から感謝いたします。

世界の政治地図の上からソビエト連邦という国が消えてしまって以来、旧ソ連の共和国の歴史や独自の文化や民族の習慣が次第に全世界に知られるようになってきました。ソ連邦から出て独立したいという不屈の意志を持っていた国のひとつがウクライナでした。
  国家の体制を整える過程でウクライナの外交活動は非常に活発になり、近くの国でも遠くの国でもウクライナ人の国民性の特色が知られるようになってきました。


  多くの方はウクライナのすべてについて知るという段階に至ってはおらず、ウクライナにはまだ「未知の国」のままであると私は思います。今日ここで皆さんに祖国の紹介ができることは私にとってほんとうにうれしいことです。


  ご存じかもしれませんが ソ連時代にはウクライナでは日本語を勉強することはほとんど不可能でした。日本という国やその文化に対して興味を持つウクライナ人はとても多かったのですが。ソ連崩壊後ウクライナの大きな町には日本語サークルや日本語講座がどんどん開かれるようになりました。それが次第に発展して大学には日本語専攻課程ができ、第二外国語としての日本語講座が開かれ、また高等教育機関では日本語が選択科目となりました。


  私はリヴォフで生まれ育ちました。リヴォフはウクライナ西部にあり、最初に古文書にその名が記されたのは1256年のことです。町の名前は「ライオンの町」という意味です。なぜこういう名前になったかについてはいくつも説があるのですが、一番有力なのはこの町を作った人の息子の名前にちなんでいるというものです。この町の名前はいろいろな言語でそれぞれ発音されたり書かれたりしています。ウクライナ語ではリビウ、ポーランド語ではルブッフ、ラテン語ではレオポリス、ドイツ語ではレンベルクです。


1998年には歴史な建物の残る街の中心部はユネスコの世界遺産に登録されました。

私はこれまでの人生の大部分をこの街ですごしましたので今日は主にこの町のことについてお話します。またあとで他の町のことにも触れたいと思います。


  1980年代にリヴォフ工科大学には日本文化や日本語が好きな人たちが集まったサークルがありました。ここで指導しておられたのが準教授のアンドリイ・メドヴェジフという方です。現在は教授になられてアメリカに住んでいらっしゃいます。メドヴェジフ教授は2005年に出版されたウクライナ語ー英語ー日本語の会話集の著者でもあります。この方の活動については国立リヴォフ工科大学の準教授で外国語学部の主任ヴォロジーミル・ザドロージュヌィの論文に詳しく書かれています。


  イヴァン・フランコ記念リヴォフ国立大学のオレーナ・ゴロシュケーヴィッチ女史と(1992年に4年間コースを指導)と国立リヴォフ工科大学のミロン・フェドルィシン(1993年に2年間コースを指導)のお二人によってリヴォフの日本学は大いに発展しました。私は幸いにもこのお二人の日本語の授業を受けることができ、今でもこのお二人が教えてくださったことに深く感謝をしています。このお二人の活動は順調で、彼らはイヴァン・フランコ記念リヴォフ国立大学で選択科目として日本語を教え始め、日本語専攻課程もできました。また国立リヴォフ工科大学では応用言語学専攻の学生たちは第二外国語として日本語を学ぶことができるようになりました。同時に選択科目として日本語を学びたい学生たちのための講座でもこのお二人は熱心に指導されました。この二つの国立大学がお互いに協力しあったことも素晴らしいことです。二つの大学が一緒に盛大な「忘年会」を開いて年越しをすることも楽しい恒例の行事となりました。


   さらにリヴォフ国立大学付属古典中学校・高校(ラテン語などの古典を読み、主として文科系の勉強をする学校)やウクライナ国立銀行付属リヴォフ銀行業務大学(銀行員を養成する大学)でも日本語は選択科目として教えられています。


  リヴォフには日本人の先生たちも教えにこられました。感謝をこめてそのお名前をあげたいと思います。久留米大学の阿部三樹夫準教授、豊福葉子さんや平野高志さんと共に現在も教えておられるシタンダ・ソウさんです。特に熱心に指導してくださったのが三大学で教べんを取られた豊福さんです。名前をあげた二つの大学の他にリヴォフカトリック大学でも教えられました。

豊福さんとリヴォフ国立大学の準教授オレスタ・ザブランナさんの共同作業によって作られたのが日本語の会話の教科書「話題の!日本語」です。


同様に日本の大学とも直接の交流ができるようになっていきました。たとえば鈴鹿国際大学のステファン・コスチック教授の提案によりリヴォフ国立大学や国立ウクライナ銀行付属銀行業務大学で日本語を学ぶ学生たちは日本に交換留学ができるようになりました。リヴォフ国立大学の学生で成績が良いものは山口大学で一年間の研修を受けることができます。また日本の学生たちも毎年リヴォフで勉強しています。


  リヴォフには有名な日本のウクライナ学者たちがよく訪れています。ウクライナ語の教科書の著者で中井和夫東大教授や数々の辞書を編纂した天理大学の日野貴夫準教授です。


  私は時々私たちが日本語を学び始めたばかりのころを思い出します。当時は教科書や教材が不足していました。タイプライターを使って教材を印刷したり、オフセット印刷でゴローヴィンの教科書をコピーした手製の教科書を作って喜んだりしたことを思い出します。
そういう大変な時代にウクライナの日本学者の卵たちに手を差し伸べてくださったのが国際交流基金です。この国際交流基金の惜しみない援助のおかげで私たちは教科書、本、オーディオやビデオ教材、パソコンまで受け取ることができました。そしてウクライナの教師たちは日本に定期的に研修に出かけ、日本語の知識を高め、教授法を学ぶことができました。この場をお借りして国際交流基金の皆様にその全世界での素晴らしい活動に心から感謝したいと思います。


 リヴォフに日本語サークルができたのと同じ頃に 同様なサークルや講座がウクライナの他の都市にもでき始めました。キエフ、オデッサ、ドニェプロペトロフスク、ハリコフなどです。シンフェローポリやルガンスクでも日本語が教えられるようになりました。日本語やその文化がウクライナで人気があることは日本語を学ぶ学生数においてウクライナがヨーロッパの国々の中でずっと上位を占めているということでもあきらかでしょう。

 ウクライナと日本の友情と協力はあらゆるレベルにおいて発展しつつあります。両国の公式な関係と相互理解の発展については両国の大使館のホームページに情報があります。両大使館は精力的にさまざまな活動を続けており、私は両方にお礼を言いたいと思います。

 両国の普通の人達による、草の根の交流も盛んになっています。私は今「普通の人たち」と言いましたがそれぞれ一人一人が非常にユニークな人たちなのです。


  私の友人達でウクライナでもその他の国々でもよく知られている人たちのことをお話しましょう。たとえば 日本―ウクライナ文化交流協会の会長小野元裕さんと副会長の田平直さんと五十嵐恒暁さんはウクライナ人と日本人の友情の発展のために常に様々な行事を企画しています。小野さんはキエフに一年滞在し、ウクライナ全土を旅してからウクライナについて小さな本を書きました。この交流協会の最近の活動のひとつにリヴォフにたくさんの着物を送ってくださったことがあります。この着物を私たちは大学や劇場にプレゼントとして差し上げることを計画しています。私はこのことが地元の新聞やマスコミに取り上げられるようにと願っています。小野さんは日本人の旅行者を度々ウクライナに連れてこられました。彼らは学生たちと交流し、レクチャーをするだけではなく 実際に歌を歌ったり、落語や折り紙、日本舞踊などを見せてくださいました。小野さんの活動についてはお話したいことがいっぱいありますが残念ながら 時間が足りません。


  またもう一人すばらしい人がいます。それはチャーリー・シュウイチ・佐久間さんというカナダに住んでいる日本人です。佐久間さんがウクライナの文化と出会ったのは北米大陸でした。アメリカとカナダにはたくさんのウクライナの移民たちがすんでいます。

 佐久間さんはウクライナ文化、特に民族舞踊とウクライナの楽器バンドゥーラに魅せられて 芸名をウクライナ風にして「サクマーチュク」とされました。そしてリヴォフのデュエットグループでウクライナ功労芸術家でもある「バンドゥーラロズモヴァ」のマスタークラスに定期的に通って学んでおられます。佐久間さんはリヴォフに度々来られて様々なコンサートに出演しています。このことについての詳しい情報はインターネットで得ることができます。


 若者たちに人気があるのが現代の日本の文化ーアニメ、マンガ、コスプレなどです。若者たちはそれぞれ興味があるもの同士が集まってクラブを作り、インターネットを活用してまた独自のフェスティバルなどを企画して情報交換をしたりしています。私はたまたま日本の漫画が営利目的ではなく翻訳されているのをみましたが これを訳したのはリヴォフ国立大学の若い日本語教師レフコ・ルチクさんでした。

 日本の伝統文化もウクライナでは人気があります。生け花、茶道、書道,囲碁などです。ウクライナ工科大学付属のウクライナー日本センター(これはキエフにあります)では希望者はそれぞれ好きな講座に登録することができる上に、それぞれのレベルに合わせて日本語講座にも登録することができます。


 このウクライナー日本センターの協力のおかげでキエフとリヴォフの日本人とウクライナ人の教師たちが協力して2巻本の「みんなの日本語」のウクライナ語版を世に送り出すことができました。
両国の交流の向上と強化をめざす活動は特に古都京都の姉妹都市であるキエフで行われていると言えるでしょう。しかし他の都市でもさまざまな文化行事が行われています。日本の音楽家のコンサート、日本の指揮者の客演、映画祭、さまざまな展示会、日本の伝統文化や工芸品の実演などです。

 最近では全世界的に和食が人気の的になってきています。この傾向はウクライナでも見られます。大きな都市ならばどこでも和食のレストランやすしバーがあると思います。残念ながらそれらの多くは料理の質の点でもサービスにおいても日本のレストランのような高いレベルには達していません。日本人の板前のいるようなごく少数の本格的な和食のレストランでは日本よりも値段が高いのが普通です。近い将来こんな状況が改善されるように願っています。

 日いずる国の文化で特に注目されているのが日本の武道です。貴重な文化遺産であり、知識と能力が集約されているものである武道に親しむことは 古の文化に深く浸り、宇宙の調和を包括的に学ぶことでもあります。


  現在ウクライナには様々な武道のサークル、クラブ、連盟がありますが 圧倒的に人気があるのが日本の武道です。ウクライナでは柔道をしている人が多いのですが、ウクライナのスポーツ柔道は嘉納治五郎先生の作り上げたものより、ソ連時代のサンボというスポーツに近いもののように思われます。


 合気道や様々な流派の空手をしている人も多いのです。多くの人が日本は空手のふるさとだと思っています。少林寺拳法やなぎなた、古武道や相撲をしている人もあります。
 もちろん剣道や居合道をしている人や杖術や弓道をしたい人もあります。

ウクライナの剣道についてお話しましょう。一番大きな組織はキエフ剣道連盟です。この指導をしておられるのがウクライナー日本センターの日本語教師である鹿児島出身のゴダイ・ヒロキさんです。彼はウクライナに剣道を広め、理解してもらうために日本剣道連盟や世界剣道連盟と連携しながら大変な努力をしてこられました。このおかげでウクライナの剣士は剣道の練習のための防具や道具をたくさんプレゼントしてもらいました。

日本からは度々ウクライナの剣士たちに公式にもまた個人的にも援助があったことを感謝します。
剣道はウクライナの多くの街で行われています。ムカチェボ、リヴォフ、チェルノーポリ、ルツク、ニコラーエフ、シンフェローポリ、ハリコフ、ドネツクなどです。近い将来前ウクライナ剣道連盟が創設されて ウクライナ人が国際試合に出場してレベルの高い日本の先生たちと出会うことができるようにと願っています。


ゴダイさんと同様に宮崎出身のクロキ・タカシさんも2000年からキエフに住んで西尾武道を教えておられます。これは合気道の影響を受けて作り出されたものです。黒木さんはウクライナの6都市と外国でたゆみなく教えておられ、ご自分の生徒たちに真の日本の武道の精神を伝えようと頑張っておられます。

日本に住んでいるおかげで私は日本武道館で外国人のために開かれている武道の大規模なセミナーに参加するというすばらしい体験をしました。


スピーチの時間が終わりに近づいていますが 今日ここにお名前をあげることができなかった方々には申し訳なくおもっています。両国の相互理解の発展のために努力しておられる方々は非常に多く、今日はほんの少しだけお話できただけです。今日名前をあげた方も、あげられなかった方も それぞれお一人づつについてお話することができるほどすばらしい仕事をしておられるのです。
これから両国が仲良くなるために私たちができることがまだたくさんあると思います。両国の相互関係はこれからますます強化されよくなっていくばかりでしょう。これでお話を終ります。




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