隣の芝生は青い
清水ハッワ
17年前 私は極東汽船で働いていまし た。乗っていた船の航路は津軽海峡を通って アナディリ(ベーリング海峡の近く)に行くものでした。ある春の夜、私は船の窓から函館の夜景をうっとりと眺 めていました。目の前には未知の国があり よい香りとまたたくネオンが私を招いていました。背中に羽が生えてあそこに飛んで行けたら、、と思いました。な んとしてもあの日出る国に行こうという夢が生まれたのはたぶんその夜のことです。
長い航海が終わりウラジオストックに帰る と私は船の図書館に行って この夢の実現に役立つ資料を探しました。そして1年後に私は初めて外国航路に出ました。その行き先は日本でした。文字通り船のタラップを降りて踏み出した最初の一歩から 私は日本にすっかり惹きつけられてしまい ました。それは酒田という港でした。ニコニコして幸せで輝いているような日本の人たち、丁寧なお辞儀、物資のすべてが豊かであること、そしてどこもピカピ カに清潔であることにすっかり感激してしまったのです。当時のロシアはまだ完全には自由な国ではなかったので一人で町に出かけることは許されず一等航海士 といっしょにスーパーに出かけました。そこで 私はフルーツが入ったきれいなアイスクリームを買いました。それはおいしかったのですが 私の心は締め付け られ悲しくなりました。こんなおいしいものを国の両親や小さかった息子にたっぷり食べさせてあげられたらなあと思ったのでした。
当時の私の日給は600円でした。酒田に 10日いて6000円できましたが私はお金を貯めて中古車を買いたいと思っていました。でも出航の日にどうしても我慢ができなくなり このお金を全部使っ てお菓子を買って実家に送りました。後から母がくれた手紙には「夢に見たこともないような いろいろなおいしい食べ物をたっぷり食べることができまし た。」とあり、私はうれしくて涙が出ました。そして生まれて初めて祖国を憎みました。私の国では店の棚は空っぽだし、人々は日本人が普通に楽しんでいるこ とを楽しめません。生活が不便なため みんな不機嫌で疲れた顔をしています。ほんとうにロシア人はかわいそうでした。
この年に私の船は北朝鮮のキムチェクに行 くことになりました。船が港に近づくと 目の前には城壁のような壁が現れました。船が近づくとこの壁は下に下がって船を通します。ここにはこういう壁が続 いて三枚もあり 船はのろのろと一昼夜かかってやっとここを通り抜けました。私はうれしくなりました。こんなに厳重に守られているとすると この先には とてつもなくゴージャスな国が待っていると思ったからです。
しかし埠頭に近づくと私の夢はたちまち破 れてしまいました。100メートルおきに兵士が立っていて、その多くは機関銃を構えた女性兵士でした。税関の職員が乗り込んでくると部屋の隅々まで調べら れ、町に出かけることは禁止、散歩も船の周りだけに限ると言われました。普通日本に寄港する時は すべての船員に予定はきちんと知らされます。つまり何日 の何時に荷おろしをして出航できるかということがわかっています。ところがキムチェクではなにかもはっきりしません。船長でさえ知りませんでした。テレビ では キム・イルスン賛美の番組ばかり流れていました。甲板からは侘しい町の風景が見えました。住宅はみんな同じような建物で窓にはカーテンもありませ ん。船のへさき、タラップ、船尾には監視の兵隊が立ち、船の周りを散歩するにも船を下りたりもどったりする度にパスポートの検査です。こうして一ヶ月が経 つと みんな精神的に疲れて重苦しい気分になりました。船は鉄でできており、ずっとその中に閉じ込められていると頭が痛くなってきます。
ある時船の窓から侘しい港の風景を眺めて いるとタラップのところに立っていた当直の兵士と目が合いました。驚いたことに彼がロシア語で「パンをください」というのが聞こえました。彼は悲しい目を していて 痩せて頬がこけていたので ちゃんと食べていないことがわかりました。私は急いでパンを出してバターを塗り袋に入れて人に気づかれないように細 い紐で縛ってそっと下に下ろしました。私は彼の目が喜んで輝くのを見ました。私の顔を見ようとはしませんでしたが 小さな声でお「スパシーバ」(ありがと う)と言ったのが聞こえました。ここでの一ヶ月で私は北朝鮮と比べてずっとすばらしいロシアに生まれて幸せだったと思い知りました。すべては比較の問題で すよね。その時から 私は祖国がけっして悪くないということを理解し また誇りと失われた愛国心が戻ってきました。
8年以上日本に住み、また他の国々にも 行ってみて 私はこの世に天国はないということがわかりました。天国は天国にしかありません。そして天国に行くには努力しなければなりません。地球上のど この国にも自慢できることもあれば 恥ずべきこともあるものです。人はどこに住んでいようとも 18世紀のロシアの詩人デルジャーヴィンの言葉を思い浮か べるべきです。
「人生はすばらしい愛の贈り物だから人生を平穏なものにせよ
そして清い心でつらい運命をも感
謝して受け入れよ」
平和、家族、幸せと愛は だれにとっても 大事な宝物なのです。こういうものがあれば どんな掘立て小屋も砂漠もこの世の天国になるでしょう。
最後に 言いにくいことを一言。最近では よく地球温暖化のことが話題になっています。私がどうしても理解できないのは日本人が 昼間、室内が充分に明るいのに、窓がたくさんあっても電気をつける ことです。ロシアでは昼間に電気をつける習慣はありません。これは家計の節約にもなりますし 資源の節約にもなり 環境保全のためにもなると思います。日 本人はちょっとぜいたくになってはいませんか?
さわやかなトルコブルーのカットソーにアラ ビアンナイトのお姫様の衣装のような美しいシルクのスカートで現れた清水ハッワさん、このスカートはドバイで買ってこられたものだそうです。
スピーチの最後の苦言は私達には耳が痛い ものでした。今のハッワさんの職場でもガラス張りのような明るいオフィスなのにランチタイムに日本人はさらに電気をつけるのだそうで「字を読みもしないの にどうして?」と言われて私達は会場の電気も消してしまいました。スリランカに滞在したことのある参加者の方からは「スリランカでも昼間は電気をつけませ ん。でも近視が少なくて大学生でも100人中5人くらいしか眼鏡の人がいません。日本人の大学生なら半数以上が近視でしょう?目が違うのではないでしょう か?日本人は目が弱いのじゃないでしょうか?」という発言あり。「日本人は明るくしないと物が見えにくいのではないか?」「なんとなく習慣で電気をつけて しまうのでは?」とひとしきり日本人と照明の話になりました。
ハッワさんのふるさとはモスクワから 700キロほどのところにあるペンザ州の村です。周りを森に囲まれた静かな村でタタール人だけが住んでいるのだそうです。「ロシア旅行は安くない」「、特 にホテルが高い」という話も出ましたがロシア人から招待状を出してもらってホームステイすれば手軽に安くロシアが旅行できるそうです。ペンザ州の彼女の村 は自然を満喫できる素敵なところだそうですし 日本語ができる彼女の兄や息子がむこうで面倒をみてくれるとのことですから みなさんもいかがですか?(た だしケータイは使えないし水は自分で川から汲んで来るのだそうですが)
初めてのタタール人ゲスト ということで 少しだけタタール語も教えていただきまし た。基本的にはキリル文字を使い、6個だけ特有の文字もあるとのことでした。 (服部記)