第66回ロシア語サロン

        「アメリカのウクライナ人」
 
 

           ヴィクトル・シュマーギン

ウクライナ系アメリカ人
ボルティモア大学で東洋史を専攻し、
日本語を3年間学んだ後、1昨年5月来日。
名古屋市在住。現在、日本語学校で日本語を勉強中。 

 私が10歳になる2ヶ月前に私の家族はふ るさとのキエフを離れてアメリカに来ました。それから十五年経ちました。そして2ヶ月ほど前にたまたまある友人が私をユーラシア協会に連れてきてくれ、彼 女の紹介で服部先生に出会い、ロシア語サロンでアメリカのウクライナ移民の生活について話すようにと頼まれました。こういう機会を与えてくださったこと、 みなさんが私の話を聞きにきてくださったことに感謝しています。

 私のようなごく普通のウクライナ系アメリ カ人の生活はいったいどんなものでしょう?この質問に答えるには典型的な例として私個人の生活をお話すれば簡単かもしれません。でもそれは正しくもないし  よいやり方でもないと思います。まず最初によく考えなければならないことがあります。それは『ウクライナ人であるとはどういうことか?』という難しい質 問です。この質問には一言では答えられませんし簡単な答えもありえません。でもこのことを考えることなしにウクライナからの移民ことを完全に理解すること はできません。

 すべての人やグループは様々な情報を自分 なりのフィルターを通して取り入れているものです。ウクライナは非常に多くの面を持った国です。ある一点からのみウクライナを判断することはとても危険な ことです。ウクライナ人同士でも 他の人々のことを同国人だと認めようとしない人がたくさんいます。地域的な違い、言葉の違い、宗教や政治や文化の違いが あります。ウクライナの西部にはウクライナ語だけを話しECに加盟するこ とを希望する人たちがたくさん住んでいます。東部やクリミア半島にはロシア語だけを話しロシアを兄のように懐かしく思っている人たちもまたたくさんいるの です。ウクライナにはロシア正教徒、ローマカトリック、ギリシャカトリック信者、イスラム教徒のタタール人、ユダヤ人が住んでいます。彼らは多くの点で違 いがあるにもかかわらず全員が自分たちがウクライナ人であると称しています。自分のことはそう考えながら、他の人々のことは絶対にウクライナ人と認めない 人も多いのですが。ある人たちはユダヤ人は絶対にウクライナ人にはなれないし、いつまでたっても異民族であると考えています。またウクライナ語を話すこと がウクライナ人である必須条件と考える人たちもいます。ウクライナは独立国家共同体において 国民のパスポート(身分証明書)に自分の民族を書くことを義 務付けなかったただ一つの国でした。それでも民族問題はとても重要な問題のひとつですが、この件に関しては意見がまとまりません。もちろん、こうした様々 な民族の人たちがひとつの国に、一つの町にいっしょに住んでいるのです。家族の中にも民族が違う人がいることもよくあります。しだいに誰が何人なのかがわ からなくなってきていて若い人たちはこういうことを意識しないようになっています。でも依然として民族問題は存在していますし、だれも「新のウクライナ人 とはだれか」を決定することはできないでいるのです。

 こういう意識を持ったままウクライナから の移民たちはアメリカまでやってきたので重要だったのは出身国よりも日常的に使う言葉が何かと言うことでした。言葉、文化、民族は分かちがたく互いに結び ついて影響しあっているものです。旧ソ連からの移民たちは共通の言葉によってそれぞれのグループを形成し、それによってまた独自の政治的立場を持つように なりました。もちろん旧ソ連からの移民のほとんど全員がロシア語を話すことはできるのですが 例えばウクライナ語やアルメニア語やラトビアを通常の言語と して使う人たちはそれぞれ別個のグループを作って生活するようになっていったのです。

 ウクライナからの移民のうち何%が何語で 話しているかということについては私ははっきりとは知りません。その割合は移民してきた時期によると思います。第一次大戦までのウクライナからの移民はほ とんどウクライナ語を話す農民たちでした。そして大戦と革命後、ペレストロイカまではソ連からの移民の大半はウクライナ語とロシア語を話す政治的亡命者で した。ペレストロイカ後状況は変わり経済的宗教的理由による移民が激増しました。(約四百万人)そのうち約四十%はユダヤ人でウクライナ出身者でも日常の 言葉はロシア語です。私自身もこのロシア語を話す社会の一員です。だいたいのところロシア語を話す移民たちの生活はうまく行きました。第一世代のたくさん の移民たちがすでに定着してビジネスを始めていましたのでたとえばロシアの食べ物はなんでも手に入ります。ボルティモアにいる私の家族はロシア人の店でセ リョートカやロシアのキャンディやほんもののグルジア人の作ったシャシリクをよく買います。多くのロシア語の雑誌や新聞もありロシア語のテレビチャンネル も3本あります。高い教育を受けていて仕事ができるのでアメリカでもすぐ生活に順応でき、不動産を買うようになりました。またこれは言うべきではないかも しれませんが白人なのでなにかと得をすることが多いのも事実です。私が住んでいるボルティモアや他の多くの町ではロシア語を話す移民たちの社会でユダヤ人 が大きな割合を占めています。帝政ロシア時代もソ連時代もユダヤ人はつらい生活を送っていました。ソ連時代のパスポートには民族としてユダヤ人(ユダヤ教 徒)と書かれていましたので この宗教のせいでユダヤ人は「真のウクライナ人」とは認めてもらえないということがよくありました。ユダヤ人たちはこのこと を忘れずユダヤ人として誇り高く生きて行こうという希望を持ってアメリカにきました。

 ロシア語を話す人たちの社会の約半分を占 めるユダヤ人たちは 同じくロシア語を話すスラブ系の人たちよりも結束が固く組織されています。長年お互いに助け合ってきたおかげで社会的経済的に成功し ている人たちが多いのです。政治にも関心があり特にイスラエルのことは関心を持っています。ほとんどすべてのユダヤ人の移民はイスラエルに知り合いや親戚 があり、イスラエルにお金を送り、親イスラエル(できれば反アラブ)派の候補者に投票します。(この点ではよくリベラル派の候補に投票する多くのもっと以 前からアメリカにいたユダヤ人たちと違います。)キリスト教徒たちにはこれが気に入らず アメリカに来てユダヤ人たちがキリスト教徒に仕返しをしていると していると考えています。あるウクライナ女性は「私は典型的な田舎の村で育った。ユダヤ人たちはつらいこともあったかもしれないけれど彼らが私達より惨め な暮しをしていたとは信じられない。」と言います。こういう意見を聞くとユダヤ人たちはかつての同国人を「反ユダヤ主義者」と批判することもあります。

 私達はこういう暮しをしています。時には 問題も起こりますが だいたいのところうまくやれていると思います。ロシア語を話す移民の社会の中でも民族問題での対立はありましたし 今でもあるのです が 私達は共通の言葉を持ち、高い生活レベルを保っていることで結束を固めています。互いに批判をすることもありますが しかたがありません。それが人間 というものでしょう。ユダヤ人とキリスト教徒もたいていは仲良く暮らしていて結婚することもあります。私の父はユダヤ人ですが純粋なウクライナ人である母 と結婚しました。二人が結婚しなかったら 今日私がみなさんにお話をすることもなかったでしょう。私達はいい生活をしており将来は明るいと確信していま す。



 今回はゲストに初めてアメリカ人をお迎えしました。外国語の習得やアメリカでの差別に ついてなど様々な質問が出ましたが ヴィクトルさんはどの質問にも丁寧に答えてくれました。

)外国語の習得について

 もともと家庭内ではロシア語を使っていたのでウクライナ語は学校で外国 語として習った。英語はほとんど何も知らないまま10歳で渡米してから約3年間でほぼ完璧に使いこなせるようになった。日本語は大学で3年間学び、さらに 来日して日本語学校に通って2年、それでもまだまだそのレベルに達してない。やはり外国語の習得には年齢が大きく関わっているのではないだろうか、10歳 でなく12歳で渡米したのだったら英語の習得はもっとむずかしかっただろう。

2)家庭内で使っていたとしてもアメリカで 学校に通っていれば次第にロシア語は使う機会が減り忘れていってしまうものではないだろうか、流暢なロシア語を維持できているのはどうしてなのか?

大学に入ってからよい教師にめぐり会って再 び勉強するようになり小説も読むようになった。話すだけでなく 読むことでロシア語を維持していられたのだと思う。

3)アメリカで移民であること、ユダヤ系で あることで差別されたことは?

私が育ったボルティモアにはロシア語を話す ユダヤ人が4万人もいたので 特にウクライナから来た移民であること、ユダヤ人であることで差別されたり嫌な思いをすることはなかったと思う。ただ奨学金 をもらって進学した私学の高校は特別裕福な家庭の子供たちが行く学校だったので そこでは自分が他の学生たちとは違うと感じたことはあった。

4)将来の夢は?

今は中学で英語のアシスタントティーチャー をしながら大学院に行くお金を貯めているところ。日露戦争やロシア革命、日本のシベリア派兵などに興味があり 歴史の研究をして大学教授になることを目指 している。そういう学者に今のアメリカで大きな需要があるとは思えないが。教授になれたら将来また別の仕事を考えるかもしれない。

                           (服部記)

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