西洋の若者たちはどうして仏教に惹かれるのか
スヴェトラーナ・スムシュコー
この百年ほど西洋では仏教への関心がますます高まっています。人々はただ知識として知ろうとするだけではなく学んで実践しようとしています。そしてますます多くの若者や教養ある人たちが仏教の教えを彼らの世界観や生活のスタイルに合ったものとして受け入れ 毎日の生活の中に仏教を取りいれています。今日では西洋や北アメリカのほとんどのちょっと大きな町にはさまざまな宗派の仏教センターがあり、そこには大学に授業や仕事の後に立ち寄って講義を聴いたり瞑想をしたり、活動に参加したりすることができます。たとえば私が日本に来る前に3年を過ごしたストックホルムでは町の中心に歩いて五分ほどの距離に三ヶ所も仏教センターがありました。新聞を見れば 仏教についてのレクチャーや瞑想のクラスの情報が載っていますし、町を歩けばショウウインドウの中から仏陀がこちらを見ています。バーやディスコにも仏像があります。どうして仏教は西洋で求められているのでしょう? 仏教に帰依する人がどうしてどんどん増えているのでしょう?
仏教についての情報が始めてヨーロッパに伝わったのは300年ほど前にインドやセイロンが植民地になったときのことでした。その後、150年ほど前になって中国や日本との交易が盛んになると西洋には禅宗が伝えられました。90年前にはチベットの時間を超越したラマ教の教えが伝わりました。この東洋の教えへの興味は20世紀の初めに波のように広がりましたが それはまた科学とヒューマニズムが発展したためでもありました。
アインシュタインが他の物理学者たちの素粒子の研究に基づいて有名な相対性理論を完成させて以来、西洋人はキリスト教やその他の二元論だけでは世界で起こっていることに説明がつかなくなってしまいました。そしてその時に、世界を理解するのにふさわしいシステムを探して学者たちは東洋に目を向けたのです。アインシュタイン自身も世界を理解するための土台になるものとして仏教を勧めました。
「もし現代の科学の要求に答える宗教があるとしたらそれは仏教である」と彼は述べています。もし科学で物質とエネルギーとは同じものが違う形で現れているにすぎないと証明されるならば当然2500年前の仏陀の叡智に目を向けざるを得ないでしょう。仏陀はこう言っています。「形は無であり、また無は形である。形と無はわけることができない。」ここ100年間の科学の発見はアインシュタインの選択の正しさを証明しています。
マクロやミクロの世界、地球上の生物の世界、人間の社会におこっていることや人間の内面を研究した結果、学者たちがたどり着いたのは仏陀と同じ結論でした。私達が慣れ親しんできた二元論的な世界観を最も大きく揺るがせた事実は自然科学で一番精密な科学である量子物理学でした。ミクロの世界ではなにひとつ切り離して観察することはできません。観察は常に粒子に影響を与えます。またある条件下では粒子は一瞬のうちに互いに情報を伝えあうことが実験で証明されました。つまり一つの粒子は他の粒子の状況を知ることができるのです。お互いの間にあるのは空間だけなのに。ミクロ粒子は互いに切り離そうとすると空間に消滅してしまうかまた空間から生成されてきます。この事実はすべてはつながっている、そしてすべてはある一つのシステムのあらわれに過ぎないということ、また空間は私達を引き離していると同時に結び付けているということ、また空間や時間は私達の感覚が未完成であるために生まれた幻想にすぎないということを示しています。このようにして仏教は現代の西洋人にとって身近で切実なものとなったのです。
日本の仏教研究家であり伝道者でもあった鈴木大拙の言葉を見てみましょう。
「仏教の考えでは空(くう)には時間も空間も形も物質もない。空ではどんなこともおこりうる。それはすべての可能性を秘めたゼロであり、無尽蔵の内容に満ちた真空なのである。」まるで現代の物理の教科書からの引用のようですね?
アインシュタインは科学の視点から見て非常に大事な仏教の特徴を指摘しています。科学と仏教での認識の仕方は批判と経験に基づくものです。つまりそこにはドグマ(宗教上真理と決められていること)はなく、他人によってすでに出された結果を自分自身の経験によって確かめることが許されているのです。
仏陀自身も「どんな言葉も仏陀が言ったからということだけでは一言も信じてはなりません。自分の道は自分で照らしなさい。自分の経験と比べてみてください。」と述べています。ただ科学と違って仏教ではその認識は内面にむけられています。そして智慧は対象であり道具であり実験をする場でもあります。なぜなら仏教は智慧の本質についての教えですから。そして智慧と呼ばれるのはすべての空間と時間を含む無限の連続体です。
このように 仏教は考え方だけでなく その実践をする者に 智慧の本質を解き明かしてくれるものなのです。
ずっと昔にギリシャの賢人の一人がこう言っています。「自らを知れ。」しかしこの深い洞察の方法は開発されること無く終わり、現代の心理学でもこのようなメソッドはありません。仏教徒の目指すものは智慧の本質を知ることであり自己の能力を最大にいかすことです。さとりを開こうとするのはただ単に自分の幸せを得ようとするためだけではなく他の人にもよきことを行ないたいからです。これは西洋人の価値観にぴったりと合います。現代の西洋のヒューマニズムに基づいた社会では自由で充実した幸せな生活を送ることがよいこととされています。多くの若くて教養ある理想主義的な人たちが進んだ思想としてだけではなくユニークは自己研鑽の方法として仏教に注目しているのです。
物理の教科書や十戒を読んでもなかなか悟りは開くことはできないようです。
私達には感情や固定観念があるためになかなか悟りを開くことができません。
仏陀はそれらに対処する多くの方法を示しています。常に努力して適切な方法を使うことによって次第に自分の本質を見出すのを妨げているものを遠ざけることができます。いくらかでも自己を伸ばすことができると それはよい結果をもたらします。仏教を実践すると 心の自由を得られる上 以前には妨げられていた資質や能力が発揮されるようになります。また適切で効果的な行動がとれるようになります。その結果全体として生活の質が上がり、生活は楽しくなって他の人たちにもよいことがあります。私達のヒューマニズムに基づいた文化と仏陀の教えを実践することは西洋でも両立できると確信しています。
スヴェトラーナさんは 子供の時からずっと「自分とはなにか」「人間としてよりよく生きるにはどうしたらよいのか」と考えていたそうです。大学での専攻を決める時生物学をえらんだのも その答えを探してのことでした。90年代になり信教の自由が認められるようになると キリスト教各派の教えを勉強してみたのですが そこにも彼女は納得の出来る答えをみつけることができませんでした。そしてある日のこと クラスノヤルスクでラマ教の講演に行き 長い間の疑問に答えるものがそこにあることを感じて仏教の勉強を始めたのだそうです。スピーチのテーマを決める時に「今一番興味のあることはなんですか」と聞いたら 彼女から即座に「仏教!」という答えが返ってきました。以前クラスノヤルスクから来られたゲストの方たちに町の様子や自然について話していただいていましたので今回はこのユニークなテーマでスピーチをお願いしました。「そんなことがおもしろいでしょうか?」としばらく躊躇してらしたのですが 引き受けてくださいました。
サロンでは「ロシアではキリスト教の方が身近にある宗教でしょう?なぜわざわざラマ教を選んだのですか?」
「ご家族や友人たちの反応は?」
「スキンヘッドに襲われませんか?」
「どんなお墓に入りたいですか(!)」
「日本の仏教徒を見てどう思われますか?」など様々な質問がでました。
ご家族は最初はちょっと心配されたものの 彼女が信仰により落ち着いて幸せな様子を見て今では普通に受け入れていらっしゃるとのこと、またお墓については「両親より後に死ぬのだったら お墓は作らないと思います。ロシアは土葬でお金もかかりますし、お墓の世話は誰かがしなくてはなりませんし。」
会場から「お骨にして海に撒いてしまう人もありますが、」という声が出ると「それもいいですねえ」というお答えでした。
彼女からの質問は「日本で本当に深く仏教を信仰している人はどれくらいありますか?」というものでしたが この質問には誰も答えることができませんでした。