第64回ロシア語サロン   2006.10.15


お 話のテーマ:「ワルワーラ・ブブノワと小野アンナ」

お話:オリガ・サヴェーリエワさん

 今日は 二人のすばらしいロシア人女性に ついてお話します。この二人は40年も日本に住み 多くのよき思い出を残してロシアに帰りました。1984年にロシアでコジェヴニコワの著書「ワルワーラ・ブブノワー日本におけるロシアの画家」と いう本が出版されました。この本を読んで私は初めてワルワーラ・ブブノワとアンナ・ブブノワ(小野アンナ)の名前を知り 彼らの人生や作品を知ることにな りました。この人生に私はとても興味を惹かれました。きっとみなさんにとってもこの人たちの話はおもしろいだろうと思い今日のスピーチのテーマに選びまし た。

  ワルワーラとアンナは19世紀末にサン クトペテルブルクのあまり裕福ではない、でも仲の良いインテリゲンチャの家に生まれました。母方の先祖にはロシアの偉大な詩人プーシキンと親しくしていた 人たちがいました。ブブノフ家の人たちはこの詩人を特別に尊敬し生涯ずっと彼の作品を愛読しました。彼らの母、アンナ・ニコラーエヴナはすばらしい声の持 ち主でほとんどプロ級の歌唱力を持った音楽家でした。彼女はできるだけ小さいうちに3人の娘たち(上からマリヤ 1884年生まれ、ワルワーラ1886年 生まれ、アンナ1890年生まれ)の才能を引き出そうとしました。子供たちがまだごく小さい時からアンナ・ニコラーエヴナは子供たちにはドイツ語とフラン ス語で話しました。子供たちは全員この二つの言葉を自由に読むことができました。語学の知識はかれらの世界観を広げその後の人生ではとても役に立ちまし た。ブブノフ家ではいつも音楽が流れていました。アンナ・ニコラーエヴナは ピアノを弾いて歌い子どもたちの聴力を発達させようとしました。そして初期の 音楽教育を行い 絵を教えました。姉妹は母といっしょにしょっちゅう演劇やコンサートや絵の展覧会に出かけました。絶対音感と身体能力があったのでマリヤ はピアニストにアンナはヴァイオリニストになりました。絵が大好きで常に自分で描きたかったワルワーラは職業として画家を選びました。

アンナ・ニコラーエヴナはできるだけ娘たちの創造的な才能を伸ばそうとしました。そのため彼らは全 員、家庭での学習の他にロシアの最高の学校で最高の教授陣のもとで学びました。マリヤは高等音楽院で有名なピアニスト、アンナ・ニコラーエヴナ・エーシポ ヴァ教授に師事しました。アンナはまた同じく高等音楽院で 有名なレオポルド・アウアーの弟子でありアシスタントだったナルバンジャン教授にヴァイオリン を習いました。アウアーのクラスは当時は世界的なヴァイオリン芸術の中心でした。この高名なヴァイオリニストはアンナの才能を認めたのでアンナは度々彼の クラスで指導を受けることができました。すばらしい成績だったので姉妹は二人とも授業料を免除されました。ワルワーラは12歳から芸術振興協会の美術学校に通いました。190年には有名な芸術アカデミーに入学1914年に画家の称号と絵画の教師の資格を得て卒業しました。

1913年と14年はブブノワ家にとって辛い年でした。ワルワーラの婚約者で芸術アカデミーで共に 学んだ画家であり美術学者でもあったラトビア人ヴァリデマラス・マトヴェイが病気で死んでしまいました。マトヴェイはワルワーラの作品に大きな影響を与え ました。彼らはいっしょに外国に旅したり、ロシアや外国の芸術(様々な民族の芸術にも)研究に共通の興味を持ったり、絵画の新しい方向性を見出そうとする 多くの若い芸術家の団体の運動に参加したりしていたので 二人は将来を共にするものだと思われていたのです。ワルワーラにとって マトヴェイがこんなに早く死んでしまったことは大きな打撃でした。災難は続き ます。マトヴェイがなくなって一ヵ月後に父も病死してしまいました。個人的な悲しみは第一次世界大戦という社会的な悲しみによってさらに深まりました。か つていっしょに学んだ仲間の青年たちは前線へと向かい国内の状況も厳しくなりました。でも姉妹は以前から選んだ道―芸術活動を続けました。マリヤとアンナ はコンサートを始め、ワルワーラは女学校で絵を教えました。日本語に興味を持ったアンナはペテルブルク大学の理学部の学生だった小野俊一の家族と知り合い になりました。まもなく小野俊一はブブノフ家によく遊びに来るようになり 悲しみに沈む家族を元気づけました。彼はアンナに日本の歌を歌いワルワーラには 日本の芸術について話しました。

 ワルワーラはマトヴェイと共に始めた芸術 の研究を続け彼の名前でいくつもの論文を発表したり本を出したりしました。この時期彼女は古いロシアの絵画に興味を持ち始めました。1917年にワルワー ラはモスクワの歴史博物館の職員という職を得てモスクワに引っ越しました。そこで革命に遭遇したのです。飢餓と略奪はありましたが当時のロシアは知的刺激 に溢れていました。若い人たちは芸術において新しい形や手法を試し様々な実験的な試みをしていました。ワルワーラはこの活動に直接参加したのです。
 
  アンナは小野と結婚していっしょに来日しました。まもなく息子が生まれました。母の アンナ・ニコラーエヴナにとって娘との別れはとてもつらく孫が見たくてたまりませんでした。1922年その夢が叶いました。彼女は次女のワルワーラといっ しょにアンナに会いにでかけました。このようにしてワルワーラとアンナの新しい人生が始まったのです。日本での生活はほぼ40年に及びました。日本での生活を軌道に乗せるのはたやすいことではありませんでした。気候に慣れるのも大変でした。 夏ばてしてしまう夏の暑さや 雨季の湿気、台風など。ブブノフ姉妹は1923年の関東大震災を生き延びました。

   次第にブブノフ姉妹には新しい知人ができました。ワルワーラは日本の若い画 家や美術研究家のグループに参加しました。日本の若者たちは生活や社会や文学や芸術やありとあらゆる面で新しいものに飢えていました。かれらは新しいもの をヨーロッパに求め 多くの若者が留学しました。ソヴィエトロシアも彼らの興味をかきたてました。ワルワーラは自分の国で起こっていることについて、芸術 の新しい傾向について話しました。またリトグラフに興味を持つようになり次第にこの分野で成功するようになりましたが絵を描き続けました。彼女の絵画やリ トグラフの作品はしばしば日本や外国の展覧会に展示されました。ワルワーラは現代芸術の問題について日本の雑誌や新聞に記事を発表し続けました。日本で製 作された彼女の作品は日本の雰囲気や自然や生活や国民の様子などを伝えるものでした。彼女の作品は今日でも充分にモダンで、それを見ると日本に対して興味 をかきたてられ日本人に親しみをおぼえます。ワルワーラは日本中を旅行しました。そして旅行にいくといくつも新しい作品を仕上げて帰ってくるのでした。芸 術家の観察力のある目で彼女は普通の生活の中にある真の美を見出しました。ワルワーラがキャンバスの上に描き出した真の美はすばらしいもので今でも私達を 感動させます。1933年に東京で彼女の最初の個展が開かれました。彼女は日本滞在中に多くのロシアの古典文学の翻訳に挿絵を描きました。ロシアの画家ワ ルワーラの作品はいつも注目され専門家から高い評価を得ました。

ワルワーラの生活は絵画だけにとどまりませんでした。20年代の終わりごろから早稲田大学と東京外 語大学でロシア語とロシア文化を教え始めました。これでさらに日本人の知人が増えました。ロシア語教育という新しい分野でも彼女は大きな成功を収めまし た。多くの日本のロシア学者がブブノワ先生の弟子であることを誇りに思いました。献身的な教師としてワルワーラは念入りに授業の準備をし、ロシア語を教え るだけでなく祖国の文化や歴史や生活について学生たちに話をしました。彼女は学生たちばかりではなく 教師やロシア語や文学の専門家になった人たちに対し ても彼らがロシア語を勉強したり使ったりすることで困った時には常に援助を惜しみませんでした。ワルワーラのところには一流のロシア文学の翻訳家たちも教 えを請いにやってきました。そして彼女はいつも進んで彼らに助言したり教えたりしました。彼女がいつも進んで快く助けてくれたことを多くのロシア文学専門 家はよく覚えています。仕事の同僚や画家たちとつねに交流したことにより ワルワーラには日本を知る新しい道が開けました。日本の文化に対して本当に興味を持ち敬う気持があるのを見て日本人の友人たちは彼女に日本の現代の文化生 活で起きるすべてのもっとも面白いことについて語り、彼女が日本の生活習慣や個人生活についてもっとよく知ることができるように努め、普通の外国人には見 せないようなことも見せたのです。
 ワルワーラはロシア文学や文化について日本のあちこちで多くの講演をしました。彼女の 個展も何度も開かれました。どこでも彼女の作品は好評をはくし 大きな反響がありました。

小野アンナもまた充実した人生を送っていました。息子を育てるにあたって彼女はロシアを代表する教 師たちに自分が習った知識を彼に伝えヴァイオリニストにしようとしました。小さい頃からアンナの息子の俊太郎はすばらしい音楽の才能を示しました。6歳で すでにコンサートに出演し12歳からはオーケストラで第一ヴァイオリンを弾くようになりました。彼の演奏はラジオで放送されました。俊太郎は神童と呼ばれ ましたが この才能ある少年は病気で若くして死んでしまい家族は大きな衝撃を受けました。息子の死後アンナと夫はうまくいかなくなってしまい、とうとう離 婚してしまいました。こんな大きな悲しみにもアンナは負けませんでした。たった一人の息子の死を乗り越えたアンナにはただ生きるだけでなく創造し活動する 力があったのです。彼女は人生の意味を教育に なぐさめを音楽に見出しました。彼女は日本人にロシアの音楽の精神的豊かさを伝え 日本の音楽界に大きな影 響を与えました。何代にもわたって日本の有名なヴァイオリニストたちは小野アンナ先生の弟子であることを誇りにしていました。姉と同様に彼女にも日本の音 楽界に多くの知人がいました。その音楽界で彼女はすでにしかるべき地位を得ていました。

アンナは祖国の音楽家たちとも親しく連絡を取っていました。日本に公演に来た多くの音楽家たちは彼 女のスタジオをおとずれました。かれらの前でアンナの弟子たちは演奏したのですが その数は長い日本での教育生活の間に1000人以上にもなりました。ア ンナは弟子たちにはまるで自分の子供のように接しました。そして自分の息子に伝えたかったことすべてをかれらに伝えようとしました。弟子たちにはヴァイオ リンを弾く技術に優れることだけではなく音楽の心を理解することを求めました。弟子たちにはみずからに厳しくすることを教えました。アンナは選んだ職業へ の大きな愛とつねに自分に厳しく完璧を要求することを区別していました。彼女の弟子の中からは多くのすぐれた日本のヴァイオリニストが育ちました。音楽教育の分野においてのすぐれた業績に対してアンナには勲2等瑞宝章が与えられました。アンナは このような位の高い勲章を受けた最初の外国人女性でした。ブブノフ姉妹が帰国してからワルワーラは勲4等宝冠賞を受けました。
 
 長く日本で過ごして 日本と日本人を心から愛していましたが ブブノフ姉妹は心の中に自分たちの国への愛を秘めていました。そして祖国に帰国しました。 人間としての魅力、職業人としての高い意識、人に対する思いやりを持っていた姉妹は長く祖国を留守にしていたにもかかわらず祖国での生活に慣れることがで き二人とも仕事を続けました。姉妹は祖国でも文化活動に参加し新しい友人たちに日本の文化や芸術や音楽について話しました。日本の友人たちも姉妹を忘れる ことなくいつも彼らの家に立ち寄りました。このようにしてこの姉妹の全生涯はロシアと日本の文化的交流の強化というすばらしい仕事にささげられたのです。 彼らをお手本として 私達もこの仕事を続けていかなければならないと私は思います。

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