ロシアは我が命
−シュクシンの『赤いカリーナ』をめぐって
川北ナターリア
2005年にユネスコはロシアの優れた作家シュク シーンの生誕75周年を祝って8巻の全集を出版しました。
ワシーリー・シュクシーンは アルタイ地
方のスロストキという村の農家に1929年に生まれました。父は農業集団化の時代に逮捕されてそれきり帰ってきませんでした。母は再婚したのですが 義父 は戦死してしまいました。
シュクシーンは戦争時代にはまだ出征するには若すぎ た世代です。16歳になると母や妹そして自分を養うために世間に出ました。海軍に入りました。なみはずれて健康でした。
シュクシーンのポートレートを見るとごくありふれた顔です。何百万人ものロシア人がこういう顔をしていますしロシア人の三分の一はこういう顔をしています。それは兵隊、運転手、タイガの木こりやの狩人、村の学校の教師、漁師、組立工、機関士などの顔です。その目や眉には悩みや苦しみが見えます。ロシア人のための苦しみです。彼は様々な職を転々としました。コルホーズで働いたこともあり、労働者でもあり、村の学校の先生もしました。
1954年に国立映画大学に入学し映画監督、俳 優、脚本家になりました。8本のすばらしい映画を撮りました。「こんな青年がいる」「あなたの息子と兄」「おかしな人たち」「赤いカリーナ」など。「二人
のフョードル」「木が大きかった頃」「湖畔にて」「ダウーリア」「赤いカリーナ」など俳優として20本の映画に出演しました。10本の映画脚本を書きまし た。「物思い』『前線から帰ってきた兵士』「同郷人」「明るい未来に向かって行こう」など。
しかし学生時代にすでに自分の人生にとって一番大事 なことは作家になることだと自覚していました。何百編もの 短編、小説、脚本や長編小説「リュバーヴィン家の人々」や歴史小説「ステパン・ラージン」を書
きました。
偉大な作家の進化の軌跡 小説家としての発展には 三段階がありました。
3.70年代の短編 :個々の人間の苦しみに目をむけ ました。
シュクシンの作品には よりよい作品、劣った作品はなくすべて傑作です。
彼の作品は全世界で評価されてしかるべきものと思い ます。シュクシーンは生きている間に第一級の作家であると評価されていました。彼が亡くなったときには国中の人々が泣きました。その葬儀の時タクシーの運転手たちは仕事に出ずクラクションを鳴らしてその死を悼みました。彼のお墓はモスクワのノヴォジェーヴィチ修道院の墓地にあります。この墓地には
チェーホフやゴーゴリなど有名作家のお墓があり最初はまだ若い彼をそこに葬ることは許可されなかったのですが 国中からの請願の声に押されて政府も許可 を出したのでした。健康な彼の突然死でしたので親戚や親しい友人たちはその死には疑いを持っています。当時は映画の撮影の最中で彼は仲間の俳優たちとボルガ川の船に宿泊していました。死因は心筋梗塞ということになっていますが撮影前にすべての俳優は健康診断をしたはずです。死の当日、彼はいつもと変わることなく夕食を食べテレビでサッカーを観戦、船の甲板で煙草を吸ってから自分の船室に帰りしばらくして友人が声をかけたところ死んでしまっていたのでした。一番最後まで彼といっしょにすごした友人(俳優)は彼の家族や友人たちに何度も呼び出され、当時の事情を聞かれたのですが、なぜかその度に泥酔して表れ、きちんと話ができない状態でした。真相を話すことを恐れたのではないか、禁じられていたのではないかと推察されます。
シュクシーンの作品
彼はその作品で何を語ったのでしょう?
映画では何を見せたかったのでしょう?
ロシアです。ふるさとです。普通の人たちの生活や運 命です。
60年代のシュクシーンの世界は 広大なソ連の人々 の人生です。それは農村の人たちの世界、それぞれ似ているところもあり、そうでないところもありながら共通点を持つあるタイプの人々でした。それはある生活と運命を共有する人たちでした。農村で一生懸命働く人たち、戦争の時代の村の少年たち、夢を見る人たち、ちょっとおかしな人たち、そして強い男たちの話、チュイ街道でおしゃべりしたり歌ったりする農村の女性たちの話でした。チュイ街道というのはモンゴルとの国境までカトゥニ川とチュイという二つ
の川の間の谷間に作られた長さ626キロの道路のことです。1903年から13年に建設され20年代に修理されました。この人たちは自分のいとしい故郷に住んでいられたので幸せだったのでした。
1964年にシュクシーンの人生に転機が訪れました。映画「こんな青年がいる」で映画界で高く評価され一挙に有名になり、賞を受け、注目を浴びるようになりました。
作家としての第二の段階は書き方が変わって、村と町を比較するようになりました。彼は村の人々、農民に同情して彼らの悩みや苦しみを描きました。村の人々を弁護しようとしました。同時に彼は村の人々に悔しい思いもありました。彼らは働き者で農民で田舎者でした。町にはどうしようもない人ばかり。あるいは変な人−性格的にーおかしなことばかりしていま
す。
これは不穏な落ち着かない世界です。こっけいでもあり愚かでもあり。
どうして落ち着かないのでしょう? いったいなんのせいで?
自分の人間としての価値が発揮できない、自己実現ができないからです。
シュクシーンのふるさとの人たちは書類かばんを抱えてやってくる者が嫌いです。官僚や農作業で手を汚すことをしないふとった人たち、町のインテリが嫌いです。彼らを憎み軽蔑しています。
三つ目の段階 作家としての飛躍
この段階では彼の小説の主人公は郵便配達夫、町にやっては来たものの定住することのできない季節労働者やもぐりの労働者たち、あるいは村に引っ越すことを考えている町の人たちです。ここで描かれるのは村の人もこっけいだったり、愚かだったり、間違った行いをしたり〔短編「私生児」〕意地悪だったりするということです。なぜ?どうして?
心の中にある意地悪さと絶望のせいです。ここからつねに今の自分とは違う生活をしたいという願望が生まれます。(短編と映画「マラフェイキン将軍」)
晩年のシュクシーンには魂を引き裂かれる思いがありました。「心が平安でなければ生きることは不可能だ。」は彼の信条でもありました。ユニークな社会的経験を積んで(半分は農村で半分は都市で)それでたどり着いた真実とは、人はそれぞれ一人ひとりを理解しなければならないということでした。
いったい今わたしたちになにがおこっているのか?
ゆがんだ心を理解すること
悪の中から善を呼び覚ますこと
間違った行いをする人を理解すること
いったいなにが心を苦しめ引き裂くのか
人はなぜ善意を持って近づいた人たちに憎まれるのか
これらの疑問を抱えてシュクシーンは生き、そして死んでいきました。
「赤いカリーナ」(1974) 心の動揺と避けよ うのない死
国中を震撼させた傑作です。データのよればこの映画を見た人は6千万人だそうです。彼の創作上の遺言でありもっとも優れた映画です。国際的にも高く評価されました。主人公はエゴール・プロクージン、その驚くべき人生を描いています。精神的な破綻、人の死を描いたスケールの大きいドラマでした。
シュクシーンの言葉
「私たちの前にひとりの賢い、善良で才能のある人間がいる。人生で最初の困難に出会ったとき彼はわき道にそれた。このようにして良心の呵責におりあいをつけ、母や世間や自分をも裏切る道が始まったのだ。人生はいつわりの法則でまわりそのせいでうだつの上がらない人生は破壊されてしまったのだ。」
ドストエフスキーを思い出しましょう。芸術はいつの時代にも魂の同様を最初から最後までじっと見つめてきました。エゴールの人生は朽ち果ててしまいました。中には「こういう人たちに他の出口はないの?」とたずねる人たちもあるでしょう。ないわけがありません。あるのです。多くの人々が彼に手を差し伸べました。でも彼自身がその手にすがることが出来ませんでした。(あるいはそうしたくなかったのかもしれません。)犯罪に関わったことで死が逃れられないものと感じられたのかもしれません。賢く善良な才能ある人がみずから死をもとめてしまいました。いったいどうなっているのでしょう? なぜこうなったのでしょう?
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当日の参加者の中でシュクシーンの本を読んだこと がある人は2名、映画『赤いカリーナ」を見たことのある人は皆無でした。ロシアでは知らぬ者のない有名な作家ですが日本ではほとんど知られてないようですね。まずカリーナの赤い実の写真、シュクシーンのポートレート、彼の生まれたアルタイ地方の地図を見せてから ナターリアさんは熱くシュクシーンを語りました。彼の作品、特に映画「赤いカリーナ」はソ連全土の人を感動させ泣かせた名作でした。シュクシーンが突然死した時には国中の人が嘆き哀しみ喪に服した
そうです。DVDでその『赤いカリーナ』の名場面を見せていただき解説していただきましたが、なんとも悲劇的な映画で会場はしゅんとしてしまいました。 シュクシーンは有名な映画監督タルコフスキーと国立映画大学で同級生でした。父が有名な詩人でエリート出身のタルコフスキーとは違って農家出身で様々な職業を経て入学した彼はユニークな学生でした。ある時試験で『戦争と平和』のベズーホフ伯爵を演じるという課題が出たとき彼は「"戦争と平和“だって!そんなもん、読んだことはあり ませんよ!」と言っていならぶ偉い先生方をびっくりさせたそうです。彼は「あんたがたは村の教師ってどんなものだかご存知ですか?まず森へ行って木を切ら
なきゃならないんですよ、子供たちがあったまるのに薪がいるんでね。さあ、教えようと思えば今度は教科書がない!さあ、村の教師ってこんなものです。"戦争と平和”なんか読む時間がどこにあります?」と 試験官たちを怒鳴りつけました。彼の言葉に感銘を受けた教授たちは 彼の成績に最高点の「5」をつけたとのことでした。(服部記)