オムスクについて 鍵谷アレフティーナさん
私がオムスクに初めて来たのは1984年でした。そしてこの町が大好きになりました。ここで私は青春時代をすごし そこには今も友だちや先生や仲間や仕事の同僚たちがいます。オムスクの冬は北極か南極のように寒いのですが 7月の猛暑は中央アジア並みです。この町はシベリア鉄道とモンゴルから北極海に続く川の流れとが交差するところにあります。またこの町は「シベリアの門」とも呼ばれています。今年オムスクは290周年を迎えました。今日ではシベリアでは一番大きな文化と工業の中心地です。世界の歴史から見れば まだ若い町ということになるでしょうが もうかなり伝統のある町でシベリアらしさを残しながらオムスクは年々美しくなっています。
オムスクの四季はそれぞれ魅力あるものです。春には全ての花が咲き町は咲き乱れる花の香りでいっぱいになります。日本人が桜を愛するように シベリアではりんごとエゾノウワミズザクラ、ライラックの花が愛されています。
夏は暑くて 7月には30−35度になり 人々は体を焼くために岸辺に急ぎ 子供も大人も水遊びを楽しみます。春にはダーチャの畑での仕事が始まります。8月や9月になると作物の取入れをして冬の準備に取り掛かります。オムスクの家庭菜園では 畑仕事の達人たちがジャガイモから様々な種類の葡萄まで栽培しています。秋は9月に始まり 木々は緑色から鮮やかな秋の色へと衣装を着替えます。重く雲がたれこめて小糠雨が降る秋はまだ始まらず 猛暑の夏が終わろうとしているこの時期は「おばあちゃんの夏」と呼ばれ、素敵な季節です。11月の終わりごろの初雪を町の人たちは喜んで迎えます。12月には太陽は輝いても寒さが厳しい冬の本番が始まります。私や多くのシベリアの人たちにとって冬は 新年の楽しい遊び(氷で山や砦を作ったり そり遊びしたり 様々な荒っぽいシベリア風の遊び)に結びついています。1月になると寒さはますます厳しくなりマイナス35度から40度にもなります。
オムスクはシベリアではもっとも西にある町で イルティシ川とオミ川の岸辺に広がっています。町の面積は 572、9平方キロメートルでモスクワまでは2555キロメートルです。飛行機で行くと3時間、電車では2日かかります。人口は114万2800人、大陸性気候で7月の平均気温は17度、1月の平均気温はマイナス20度です。
現在のオムスクには広い幹線道路、岸辺の通り、橋、大規模な工場などがあります。昔ここがただの草原だったとは想像するのがむずかしいほどです。1716年の春にピョートル大帝の臣下だったイヴァン・ブフゴリッツが兵隊を率いて 波の荒いイルティシ川の岸辺に上陸しました。ピョートル大帝の命令で 南の国境線防衛を強化するために来たのでした。これが町の始まりでした。最初は木で作った砦でしたが 1760年代になるとしっかりと堀や土塁で囲まれ 石で作られた新しい城砦が作られました。これは西シベリアではもっとも大きな城砦でした。しかしオムスク砦は南側の隣人たちとは仲良くしていたので 戦うことはありませんでした。草原では平和な暮しが続き 公園や堂々とした建物が作られ始めました。ここには商人たち、職人たち、役人たちも住んでいましたが 住民の大半は軍人でした。
オムスクには最初から 様々な民族が住んでいましたし そういう中でそれぞれの民族の宗教を敬う伝統が生まれました。砦の町にはイスラム教の寺院やカトリック教会やコサックの敬うニコライ教会が立てられました。1894年にモスクワやペテルブルクからオムスクを通って極東へ行く鉄道が開通しました。ロシアからシベリアへやってくる人たちのための道が開かれたのです。町は商業都市となり 貿易会社や個人銀行ができました。ガスフォール将軍が市長の時に 若死にした彼の妻リュボフィの名前をとって リュービナの林が植樹されました。19世紀の終わりと20世紀の初めにここに堂々たる建物がたてられました。裕福なオムスクの商人たちはこれらの建物に財産をつぎ込みました。これらの建物は今もオムスクを美しく飾りその魅力となっています。リュービンスキー通りはオムスク市民のお気に入りの場所であり オムスクの砦はオムスク市民の心のよりどころとなっています。
第二次大戦のときにはオムスクは レニングラードからの避難民を、ウクライナからは工場を受け入れました。町には37の病院も開かれました。空き地には軍事工場ができました。オムスクの工場の多くはこの時期に操業を初め 戦後には大規模な工場となりました。町には防衛産業の工場が多かったので長い間オムスクは閉鎖都市になっていました。50年代の終わりに 町を公園都市にするという構想が実現されました。これはもともと1919年にヴェルネルというエンジニアが提案したものでした。町中は緑で覆われ公園や広場はエキゾチックな花でいっぱいになりました。これは建築家だけでなく 熱心な町の人たちの努力によるものでした。オムスクのすべての木々は何代にも渡ってオムスクの人たち自身の手で 植えられてきたのです。
オムスクは歴史が大切にされている町のひとつです。今日でも町の通りや博物館やオムスクの芸術家たちの作品の中やプロやアマチュアのアーティストたちの作品の中にオムスクの歴史を見ることができます。シベリアでは一番古いオムスク郷土史博物館は1878年に建てられました。この地方の自然や文化に関するもの(衣服、家庭用品、ピョートル大帝の文字改革以前に印刷された本のコレクション、記念メダルやコインなど)25万点以上の展示品があります。
オムスクは豊かな文化の伝統のある町です。その文化を支えてきたのは美術館、博物館、劇場、図書館、文化宮殿、芸術学校などです。オムスクには5つの国立劇場、3つの市立劇場があり何世代にもわたる熱心な演劇ファンのおかげでとても演劇の盛んな町となりました。1764年にここの初めて個人の劇場ができました。今では 一番有名な劇場はアカデミー劇場です。その建物は1904−1905年に一般市民から集められた募金で建てられ建築の観点から見ても記念すべきものです。オムスクドラマ劇場の劇団は今までに2回国家から受賞していますし 勤労赤旗勲章も受章しています。1997年にはこの劇団は3つの『黄金の仮面』を受賞しました。監督賞、最優秀男優賞、最優秀女優賞です。この時は日本とロシアが共同で上演したもので出し物は安部公房原作の「砂の女」をオリガ・ニキーフォロワが脚色したものでした。主演したのは日本の女優「アラキカズホ」でした。実際のところ ロシアの観客たちには理解しにくい日本的な思想は省かれて シンプルで永遠の愛の物語だけが演じられたのですが ユニークな演出方法や本物の砂を撒き散らした舞台は とても面白く オムスクの観客を魅了しました。オムスクドラマ劇場には 東京の劇団「東京芸術座」が公演に来て ゴーリキーの「どん底」を演じたり 日本の人気俳優柄本明がチェーホフの「小波瀾」を演じたりしています。
国立オムスク合唱団は外国でも有名です。この合唱団は戦後まもなく 民謡の研究家であり収集家であったカルーギナによって創立されました。1991年には この合唱団専属のダンサーであったアレクサンドル・ロマノフがプロの歌手、ダンサーや演奏家を集めてシベリア音楽舞踊アンサンブル「プチッツァ トロイカ」を創立しました。そのレパートリーは豊富で 美しい衣装と華麗な演出ですばらしい公演をします。このグループは最高のロシアの民族音楽の伝統を守りさらに発展させています。そのことは彼らのプログラムをのぞいてみるとわかることでしょう。「わが愛と苦しみ、それはロシア」「我々はロシア人」「コサックの仲間」また 「冬のロンド」「四組のカップル」「ホフロマ」「パーレフ」「煙」「女の反乱」「市場」などすばらしい出し物があります。
彼らはオムスクの町で公演するばかりでなくロシアの町や外国でも公演しています。1992年にはドイツで公演しその収益はセミパラチンスクの白血病患者のこどもたちに贈られました。1993年にはオーストラリア公演に出掛けて47都市で172回のコンサートを開きました。1996年にパナマ公演、2000年にはアメリカで公演しました。現在は韓国で公演しています。このグループのリーダー、アレクサンドル・ロマノフは日本が大好きで 彼の夢はこのグループの日本公演を実現させ 日本のロシア民謡ファンに自分たちの音楽と踊りを見てもらうことです。2005年の愛知万博には ロシア館でオムスク州の日がありました。オムスクから市の演奏家たちが参加したのですが オムスクの人たちにとても愛されている子供のダンスアンサンブル「ソーネシュカ」が出演してロシアとシベリアのダンスを披露しました。ロシアと日本との文化交流をさらにすすめること、特にオムスクとの交流を深めるための催しでした。
オムスクは 科学と教育の中心でもあります。町には20の大学があり様々な分野での専門家をそだてるためのレベルの高い教育で有名です。2006年の春には オムスクで「日本週間」が開催されました。東京大学の教授である江原ヨシヒロ氏が訪れ オムスクの学生たちと会いました。オムスクはスポーツでも有名です。ホッケーチーム「アヴァンガルド」は2004年にはロシアチャンピオンになりました。サッカーのチーム「イルティシ」は大変な人気です。オムスクが世界に誇るスポーツマンは ボクサーのアレクサンドル・プシュニーツィン、水泳選手のロマン・スルドノフ、2004年のオリンピック金メダリストのボクサー、アレクセイ・チシェンコ、体操のイリーナ・チャーシナなどです。毎年8月には国際シベリアマラソンが行われ ロシアばかりでなく世界中から参加者がやってきます。このマラソンにはだれでも参加できます。
8月の初めにはとても楽しいお祭りがあります。通りをパレードが通り、プロやアマチュアの歌手やダンサーの公演があります。最後はイルティシ川での花火でこのお祭りが終わります。同じ時期には「フローラ」という花や野菜の展示会が開かれますが これらは全てオムスクの人たちによってオムスクで栽培されたものです。
オムスクは交通の要所でもあります。この町を飛行機も鉄道も道路も川もパイプラインも通っているのです。今地下鉄や飛行場の建設も進んでいます。
2005年には川の両岸をむすぶ橋もできました。町の企業は世界の60カ国以上と貿易をしています。スロバキアのプーホフや カザフスタンのペトロパブロフスクとは姉妹都市です。
一度でもオムスクに来たことのある人ならみんな きっと この町が とてもユニークで おおらかで親しみやすいと思ってくださるでしょう。町はとてもきれいで シベリア風にのびのびとしています。どうぞ シベリアの町オムスクにおいでください。
サロンでのスピーチをお願いした時「それではぜひオムスクについてお話しましょう!ロシアをあちこちで公演したけれど オムスクが一番素敵、一番好きです。」とおっしゃったアレフティーナさん、民族舞踊アンサンブルのビデオやオムスクの写真を見せながらの楽しいお話でした。今回ロシアが出場できなかったワールドカップの話になって「ロシア人はサッカーが大好きなので みんなビールを手にテレビで観戦していますよ」という彼女の言葉に会場から「あれ、ビールですかあ?ウオッカじゃないの?」という発言がありました。それに対して彼女から「一言言わせてください。ロシア人というとすぐウオッカで酔っ払う話になるのはなぜですか?日本人と同じように 飲む人もいれば飲まない人もいます。ロシア人がみんなウオッカを飲んでばかりいるわけではありませんよ。」と抗議がありました。