ロシアの祝日 徳用アントニーナ
さん
ロシアは伝統豊かな国です。国家の祝日、特定の職業につく人たちの祝日、宗教的なもの、それに個人的なお祝いの日などたくさんの祝日があり昔からそれのお祝いをしてきました。今日はそのいくつかを取り上げてお話しましょう。
新年のお祝い
古代には新年は春と結びつけて考えられていました。つまり自然がよみがえり 新たな収穫が見込まれる春が一年の始まりということです。ルーシ(9世紀ごろドニエプル川流域にできたスラブ人国家)では新年は3月1日に祝っていました。14世紀になってモスクワの宗教会議で ギリシャ暦に従って 9月1日を新年とすることが決められました。
ヨーロッパ旅行から帰国したピョートル大帝が1699年になってやっと「今後新年は1月1日からということにする」と特別な命令を出しました。
「ロシアではいろいろな日を新年としてきたが 1月1日からは混乱を避けてどこでも1月1日を新年とする。仕事の成功と家族の幸せを願い 互いに新年を祝うべし。モミの木で飾りをつけ、雪の山をそりで滑らせて子供たちをたのしませよ。大人は酒を飲みすぎたり 殴り合いをすることがないように。」という命令が出されました。
女の子たちは12月31日に 念入りにテーブルの下を箒ではいてもしそこに穀粒をみつけたら 次の年にお嫁に行くだろうと考えました。また1月1日には一番いい服を着て 何度も着替えました。これは一年を通して新しい服が度々着られるようにと願うためです。昔からロシアには新年にはいろいろな言い伝えがありました。
? 新年にある人におきた出来事はことは その後一年中起こる。
? 新年につらい仕事や汚い仕事はするな。でないと一年中休み無くつらい労働をせざるを得なくなる。
?借金を返すな。返すと一年中借金を返さなければならなくなる。
現代では新年は主に家族でのお祝いです。きれいにヨールカを飾り付けて(生の木でも作り物でも)31日の夜 もうクレムリンの鐘が鳴ってしまってからこのヨールカの下にプレゼントを置きます。子供だけでなく家族全員へのプレゼントです。31日の夜12時ちょっと前に古い年を送り出すのですがクレムリンの鐘が鳴っているうちに願い事をします。女の子たちは鐘が鳴っている間に願い事を紙切れに書いてろうそくで火をつけて燃やし その灰をシャンパンに入れて飲んでしまいます。この間ほんの数秒しかないのですが ここまでを鐘が鳴り終わるまでにすることができればこの時の願い事はかならず叶うとされています。午前一時過ぎると人々はちょっとしたプレゼントや花火を持って外に出て 歌ったり踊ったりします。綱引きや歌のコンテストも始まります。
クリスマス
ルーシでクリスマスのお祝いが始まったのは10世紀のことでした。昔からこの日はひっそりとした祝日でした。クリスマスイヴには宮廷でも農民たちの小屋でもごく簡素なお祝いをしていました。そのかわりその翌日には大騒ぎをして盛大に祝いました。歌を歌いながら家々をめぐり 輪になって踊ったり、クマや豚やさまざまな怪物の扮装をして子供や女の子たちを脅かしたり 将来を占ったりしました。もちろんお酒もしこたま飲んだのです。様々な材料で怖い仮面も作られました。16世紀からはクリスマスのお面は「харя」(ハリャー、醜い顔という意味)とか「рожа」(ロージャ)とか呼ばれるようになりました。
昔はクリスマスは村中で家から家へめぐってお祝いしました。町ではこのクリスマスに家々を巡ることももっと大掛かりになりました。平民は広場に立てられた仮設の見世物小屋やメリーゴーラウンドや市場やお茶やウオッカの飲めるスタンドで楽しみました。もっとお金のある人たちは夜遅くまで居酒屋やレストランで過ごしました。金持ちの商人たちは3頭立てのそりで走り回りました。高官たちは舞踏会を開きました。ロシアの皇帝たちもクリスマスをにぎやかにお祝いしました。
ピョートル大帝はいつも歌ったり踊ったりのクリスマスパーティで気晴らしをするのでした。宮廷にはみな仮装して集まり歌を歌ったり占いをしたりしました。皇帝自身も多くの家臣を連れて高官たちや貴族の屋敷に出かけました。その際にはみんな最高に楽しそうに振舞わなければならず 楽しくない顔をしている者は棒で打たれてしまうのでした。
エリザベータ女帝は 古いロシアの習慣にのっとってクリスマスのお祝いをしました。家臣たちは宮廷に仮装してこなくてはなりませんでした。仮面はつけませんでした。女帝自身はよく男装しました。また若い女性たちとクリスマスの歌を歌うのが大好きでした。
エカチェリーナ女帝は庶民的な遊びや気晴らしが好きで よく自分自身もそれで遊びました。エルミタージュでは目隠しをした鬼ごっこ、罰金遊び(くじを引いてそこに書いてあるこっけいな課題をする遊び)、鬼ごっこをしたり歌を歌ったり ご自身が身分の低い男たちと夢中で踊ったりしました。
現在 教会によってクリスマスを祝う時期がずれているのは ロシア、ブルガリア、セルビアなど正教会ではユリウス暦が使われているためで 12月25日がグレゴリオ暦では1月7日になります。ロシア正教会は 教会の一年の予定がずれてしまうというので 新しい暦に合わせたくないようでs。
現代では 信者にとっては教会でのミサお祈りや 十字架を掲げて教会の周りを回る最大の祝日です。そうでない人たちにとっては静かな家庭的な祝日でゆっくりくつろいだり、テレビで特別放送を見たり友達や親戚のところへ遊びに行ったりする休日です。
国際婦人デー
1918年までは(新暦になるまでは)国際婦人デーは2月23日で「女性の権利のための闘争の日」と呼ばれていました。この祭日の元になったできごとは全然おめでたくない事件でした。20世紀の初めに男性が女性に感謝しないことに腹を立てたシカゴの主婦たちが空の大なべやバケツや桶をがんがん叩きながら通りを行進し「女性の尊厳、政治的平等の権利、企業で働いたり、警官や軍人になる権利」を要求したのです。その結果この日 多くのシカゴの男性はおなかをすかせたままでいなければなりませんでした。男性たちが なにか侮辱された女性たちの心にとりいる道をみつけたのか、不満を吐き出した主婦たちがつらい女性の立場を受け入れる気持ちになったのか、しばらくはこの事件は忘れられていました。
数年たって1910年にコペンハーゲンで開かれた第2回国際女性革命家大会でクララ・ツェトキンが女性たちに自由と平等と兄弟としての連帯を呼びかけるために 世界中で毎年この事件と同じような行動を起こそうと提案しました。最初にこの運動の推進に加わったのはヨーロッパとアメリカの様々なフェミニストグループでした。たとえば イギリスでは男性の横暴の反対するストがいくつか起こりました。娼婦たちさえも料金の値上げと労働条件の改善を求めてデモをしました。でも この日は真の意味での国際的な祝日とはなりませんでした。資本主義国の女性たちは 革命運動に参加して牢獄や流刑や強制労働に処されるよりも たとえうんざりしていても台所にいた方がよかったのでしょう。しだいにこの運動もすたれました。
10月革命後のロシアで シカゴの事件やクララ・ツェトキンのアイデアが思い出され外国の記念日や宗教的な祝日の代わりにソ連の祝日を作ることになりました。当時の新聞では 3月8日は「女性労働者と農民の戦う力を見せる日」と書かれました。春や恋のことには触れていません。重点が置かれたのは女性が政治を学ぶ集会やサークルに出かけ 階級闘争や社会主義建設に参加するように呼びかけることでした。女性たちはたいしたプレゼントももらえませんでした。1925年のある新聞には すべてのサイズのオーバーシューズが店に入荷し、3月6~8日に女性たちにはディスカウントがあるとことが報じられています。
この日を仰々しく「国際」婦人デーと呼んでよいものでしょうか?ご自分で判断してください。この日が国民の祝日となっているのは旧ソ連の共和国のほかアンゴラ、ブルキナーファソ、ギニアービサウ。カンボジア、中国、コンゴ(国際婦人デーではなくてコンゴの女性の日らしいですが)、ラオス、マケドニア、モンゴル、ネパール、北朝鮮、ウガンダです。公平を期すために付け加えるとすると国連は3月8日を国際婦人デーと定めています。
今では 普通は「3月8日」と言う風に呼ばれるこの祝日は女性にとっては ゆったり休めるうれしい日です。男性は家事の大半をして 女性に気を使ってやさしくします。(これはなかなか毎日してもらうのが難しいことですが)女性に花やプレゼントを贈ります。大人の女性だけでなく 小さな女の子たちもお祝いしてもらいます。
マースレニツァ
マースレニッツァは キリスト教が伝わる前からの古い冬を送り出すお祭りでキリスト教が伝わってからも習慣が残ったもののひとつです。マースレニッツァは「ヴェリーキー・ポスト」(復活祭前の精進期)の前の週、つまり復活祭の7週間前のお祝いです。復活祭の始まりは毎年違います。2005年はマースレニッツァは3月7日から13日までお祝いしました。
マースレニッツァはキリスト教会によって 教会の祝日と認められ 「スィールナヤ・ネジェーリャ」「スィラプスナヤ・ネジェーリャ」(乾酪週間)という名称で呼ばれるようになりました。マースレニツァは冬に陽気に楽しく別れを告げ 自然に活力と太陽の暖かさを持ってきてくれる春を迎えるおまつりです。人々は昔から春を新しい人生の始まりと考え すべての生き物に命と力を与えてくれる太陽を敬ってきました。太陽をたたえて最初はイーストの入ってないパンを焼いたのですが イーストを使うことを知ってからはブリヌィを焼くようになりました。私たちの祖先は丸くてこんがり焼けたブリンは太陽そっくりと考えて 太陽の暖かさと力の一部を食べたつもりでした。
マースレニツァの間 一週間は人々は町を歩きまわりました。こんなに底抜けに陽気なお祭りは他にはありません。マースレニツァに思いっきり気晴らしをしなければ 人生を楽しむことにはならないですから。
長い上着と帽子、幅の広い帯をしめた木の皮のわらじを履いたわら人形(これはマースレニツァあるいは冬です)を町中を引き回します。マースレニツァの終わりにこの人形は焼いてしまい こうして冬とお別れします。
人々はそれぞれ楽しんだりご馳走を食べたしします。商品をいれた箱を首から吊るした売り子や売店から糖蜜菓子、熱々の白パン、砂糖衣をつけた胡桃を買ったり湯気の出ているサモワールから香りのよい紅茶を買って飲んだり、もちろんおいしい熱々のブリヌィも。
広場にはブランコやメリーゴーラウンドが立てられ 旅芸人の見世物があったり人形劇があったりしました。力や柔軟性を競う様々な競争もありました。地面に立てられた大きな柱の先につけてある賞品を取り合うゲームやボクシングをする人もありました。ボクシングは厳しい規則がありました。2人がかりで1人を殴ってはいけない、倒れた人を打ってはならない、こめかみを打ってはならないなど。
雪が降ると大人も子供も同様に楽しく遊びます。氷の山からそりや 菩提樹や白樺の皮にのって滑り降りたり スケートやスキーをしました。19世紀の後半から スケート場が作られるようになるとスケートは都市では大人気になりました。スケート場では若い人も年よりも 様々な階級の人たちが音楽に合わせてスイスイと滑りました。マースれニッツァに欠かせない楽しみが街中や村の道でで行われるきれいに飾りをつけたそりのレースです。
また雪で町を作り攻撃側と守備側に分かれて戦う遊びもあり子供も大人も参加しました。雪の町はほとんど本物の町のように作られ門や塔や宮殿もありました。守備側は鳴子と箒で武装していました。攻撃には騎士も参加しました。守備側は鳴子や箒で馬を脅して追い返そうとします。戦いが終わるのは攻撃側がなんとかして町に押し入ることができた時でした。
マースレニッツァは 最後の日(許しの日曜日)にお互いに許しあうというすばらしいキリスト教の慣わしで終わります。自分を抑制し 落ち着いて自分と人生と罪と過ちについて考えて魂を清めるとヴェリーキーポストには恨みや意地悪や復讐心から心が開放されるのです。悪いことをした覚えのない人からも許しを請わねばなりません。許しを請われたら「神様は許してくださいますよ」と答えることになっています。これから復活祭までの7週間はロシアではお祝いがありません。
現在でも昔の通りマースレニッツァは心から楽しみ、おいしいブリヌィを心行くまで食べます。マースレニッツァの楽しみはまずたっぷり食べることなのですから。
復活祭
キリストの復活はロシア正教徒にとっては最大の祝日です。そのために40日間のヴェリーキーポスト(精進)で準備をします。聖なる土曜日と日曜日の間の真夜中のキリストの復活で復活祭は始まります。荘厳な特別なミサがあります。それは復活祭の早朝祈祷会です。ミサは真夜中に始まります。神父と信者の男性たちが祭壇に登り神を称える歌を歌い始めます。この歌と共に教会の周りを3回巡ります。教会の鐘が厳かに鳴ります。
ミサの間に神父は喜びに満ちた声で全ての信者に3回「キリストはよみがえりたまえり」と挨拶します。毎回信徒たちは「まことによみがえたまえり」と答えます。祈祷会の終わりに有名な伝道師イオアン(347−407)の言葉が朗読されます。これは復活祭の儀式やその意味をよく解説したものです。ミサが終わると信者たちは手に十字架を持つ神父に近づき その十字架に3度キスをします。その後お互いにも3度づつキスをかわします。普通はこの十字架のそばですべての信者に赤く染めた卵が配られます。早朝の祈りは約1時間半続きます。このあと家に帰って家族や友人たちと精進落としをする人もあります。
復活祭は7日間お祝いしますので この週は「光明週間」と呼ばれ それぞれ曜日の前に「明るい」という形容詞がつきます。「明るい月曜日」「明るい火曜日」という風に。最初の日には妻たち(主婦は)家に残り 夫たちは友人や知人の家から家を回って復活祭の挨拶をします。どの家でも一日中食卓にはお祝いの用意がしてあります。テーブルには(精進料理ではなく)肉、卵、乳製品などのご馳走が並びます。普通は前菜にニシンの酢漬け、それからスープ、鶏肉料理、肉料理、ハム、ジャガイモ、サラダ、ウオッカ、ワインなどです。デザートには 干し葡萄入りのコテージチーズのケーキ、クリチー(復活祭用の円筒形のケーキ)、ケーキ、コンポート、紅茶やコーヒー。普通は30分ほど席についているだけで お客は別れを告げてまた次の家へと向かいます。二日目には妻たちが友人の家を訪れ、夫たちが留守番のはずなんですが なかなかこれは実行されません。
現在では この祝日は「キリストはよみがえれりたまえり」「誠によみがえたまえり」と挨拶しあう信者だけが祝うのではありません。信者でない人たちも多くがクリチーを焼き、ゆで卵を染め 集まっておしゃべりしたりおよばれに出かけたりしています。彼らにとっては 仲間と楽しく過ごす口実になっているようです。
祝日の祝い方
どんな祝日でも家族だけでなく 友人や親しい人たちと共にお祝いします。ロシア人はおよばれも 人を家に招くのも大好きです。つまり家庭的な雰囲気のなかでお祝いする方が好きなんですね。
結婚式や特別の記念日であれば1ヶ月以上前に招待状を出しますが そうでなければ公式の招待状はいりません。声をかけるのは数日前でよいのです。(前日でなければ)また出あった時に声をかけるか電話でよいのです。ロシア人は突然招待する気になる時もあります。またもしあなたがそばに住んでいたり 急におよばれしたくなったらロシア人は「遊びに行ってもいい?」とむこうからやって来ることもあるでしょう。
もしロシア人にお祝いに招待されて時間を決めたら その時間より早く行ってはいけません。10分から15分くらい遅れて行ってもいいことになっています。でも ひどく遅刻するのもいけません。その場合はテーブルにあなたの席はないかもしれません。ロシアではお客に行ってすぐに食卓にはつかず 食卓の用意ができたと呼ばれるまでしばらく食卓の近くでおしゃべりしたり その家の主婦にお手伝いを申し出たりすることになっています。お客はどこにすわるかを自分で選ぶことができます。たいていはテーブルの短い端の方にその家の主人が座ることになっています。
ロシアではお祝いの席では 立ったままおつまみをつまんだり バイキング形式にしたりすることはありません。かならずみんなでひとつのテーブルを囲みます。そのテーブルに座ってほとんどの時間を過ごすからです。でも踊ったりタバコを吸うために席を離れることはできます。ただその後はまた自分の席に戻ります。一度私は家にお客を招いた時にバイキング形式でおもてなししようとしました。でもだんだんお客がひとつのソファのあたりに集まってきて そこへテーブルが持ってこられ、いつの間にかみんなテーブルの周りに座ってしまいました。テーブルについてすぐ料理を食べ始めることはありません。最初にグラスの飲み物を注ぎおつまみを盛り付け みんなが参加できるような話をします。何について話すのでしょう?文学、芸術、映画などの最新情報について。また政治の話になることもあります。子供や家族のことにも。アネクドートや面白い話をするのもいいでしょう。堅苦しいことはなく くつろいだ雰囲気です。お客がたまたま タチアナとかパーヴェルとか 同じ名前を持つ人たちの間に座っていることがわかるとみんなが冗談をいいます。そういう場合はその人にはいいことがある、またなにか願い事ができると言われているからです。
最初にみんなで乾杯してから食事が始まります。普通は冷たい前菜が出て、それから熱い料理が出て 最後にデザートです。お祝いの時のメインディッシュはたいてい鳥料理です。もちろん他の肉料理であることもあるのですが。食卓には様々な飲み物が並んでいます。お客様のお持たせのお酒ももちろんすぐに食卓に出します。お祝いの食事は延々と続きます。飲んだり食べたりばかりではなく おしゃべりしたり歌ったりします。ときには親たちが子供たちに普段はみせない隠し芸をして見せたりします。歌を歌ったり詩を朗読したり。
お祝いごとには欠かせないプレゼントについてお話しましょう。ロシア人はプレゼントをするのがすきです。普通の祝日にも個人的なお祝いにもプレゼントを持って行きます。様々なプレゼントがあります。部屋の飾りになるもの、本、化粧品、アクセサリー、食器のセット、寝具類など。選ぶ時にはどんなお祝いに誰にあげるかということを考えて選びます。普通は親しい人に高価な贈り物をすることはありません。新年のお祝いによくプレゼントされるのは干支に関連したものです。もちろん、お祝いにはお花が贈られます。特に女性には。ただかならず生の切花で本数は奇数でなければなりません。最近では鉢植えの花も贈るようになりましたが それはその家の主婦がもしガーデニングが好きで珍しい花を育てることに興味があることを知っている場合に限られます。
パーティが終わる合図になるのがデザートです。でもこれはデザートを食べたらすぐテーブルから立って帰らなければならないということではありません。まだおしゃべりしたり歌ったり踊ったりしていてよいのです。ただ終電に間に合うように他の人たちがまだ座っているテーブルからお先に失礼することはできます。(たいていは夜中の12時ごろ)もしパーティがなかなか終わらない時には泊まっていくように勧めることもあります。
帰るときには 主人に挨拶して招待にお礼を言います。返礼として自分の家に招待することはかならずしも必要ではありません。社交辞令としてだけの招待もあります。また後からお礼状を出すことも普通はありません。そのかわり特別な理由がなくても 何度も何度もお互いに招待しあうのです。
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この10月から国際センターの民間大使をつとめることになったウクライナ人ヴィターリー・ベレジュヌィさんとウクライナ人で以前にサロンでスピーチをしてくださったテチアナさんも参加されました。復活祭に関連しての質問もあったのですが ゲストのアントニーナさんも上記のお二人も信者でもなくキリスト教のことには詳しくないということでした。
「復活祭に柳の枝を教会に持って行って祝福してもらう」という習慣について参加者から質問がありました。
復活祭の一週間前に「棕櫚の日曜日」という祝日があります。キリストが磔にされる前にエルサレムに来た時に人々が棕櫚の枝を手に持って迎えたことを記念しているそうです。 棕櫚の木がない国では別の植物で代用しているので これがロシアでは ネコヤナギらしいのです。(ちなみに地中海沿岸の国ではオリーブの枝だそうです。)ネコヤナギは ロシア語では верба ですので この日は“Вербное
воскресенье”です。
“пальмовое воскресенье”とも言われます。この日にはネコヤナギの枝を教会に持って行って祝福してもらい 家に持って帰って大切に保管しておくそうです。
服部 記