ロシアの伝統文化ー民族学者の視点から
ドミートリー・バラーノフさん
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私はロシア民族博物館でロシア民族学部門の主任をしています。私が研究しているのはロシアの伝統文化で、儀式、神話、物が持っている意味など象徴としての言葉です。毎年調査旅行に出かけて文化のさまざまな面での情報や博物館に展示するものを集めています。まず私たちをとりまく世界を民族学の視点から眺めてみましょう。
1)テーブルについて
物は伝統文化の中では本来の機能の他に象徴的な意味を持っています。つまり、物は凝縮された言葉でもあるわけです。その例としてロシアの伝統文化におけるテーブルの意味についてお話します。
まずお産の時の儀式です。お産は妊婦があの世に赤ちゃんを探しに行く旅であるとされています。難産の時は、産婆は部屋の真ん中にテーブルを置き、妊婦にその周りを3回か9回歩いて回らせます。この儀式は「天国へ行く」と呼ばれています。こうすればお産はうまく行く、つまり妊婦は自分の赤ちゃんをみつけることができると考えられていたのでした。この場合テーブルは全宇宙をあらわしているわけです。
結婚の儀式においては、テーブルは家族をあらわします。結婚式を終えたばかりの夫婦が教会から家にもどってくる時にはテーブルの四本の足は長いタオルでしっかりと結ばれています。この場合テーブルは家族の象徴で若い二人が同様に固く結ばれますようにという意味なのです。
さらにテーブルは家の主人の分身でもあります。その表面にひび割れができたら、その年にその家の主人か家族の男性のだれかが病気になるか死んでしまうと考えられていました。
テーブルは家の中を上下二つの世界に分けるものでもあります。テーブルより上のものは生きている人のもので それより下はあの世のもの、ご先祖に属しているものと考えられていました。たとえば亡くなった人たちを偲ぶ集まりがある時には料理は二通り作られたのです。生きている人たちはテーブルについて食事をし、テーブルの下には死者たちのためにご馳走を一晩置いておきました。翌朝その料理が減っていれば、死者がそれを食べたということで、その後はすべてうまくいくとされていました。
テーブルの下は黒魔術とも結びついています。家の主人が客に早く帰ってもらいたい時にはこっそりとテーブルの下にナイフを突き刺しておきます。すると客は食欲を失って早く帰って行くのです。
2)窓について
ロシア語で窓は“окно”といいますが これは“око”(目)という言葉がもとになっています。北ヨーロッパで家に窓がつけられるようになったのは9−10世紀のことと考えられていますが 最初に窓が作られた時、人々は驚いて「これは神様か悪魔が作ったものに違いない」と言ったそうです。窓があれば屋内は明るくなってよいのですが、危険も増えると思ったのです。窓はあの世にもつながっていると考えられたので、悪い霊がそこから入ってくることを恐れたのでした。ロシアの古い家を見ると窓のところに木の飾りがついているのをご存知でしょうか? あれは装飾でもあるのですが、魔よけの意味もあるのです。
飾るということは、生き生きさせるということです。飾ることによって生き生きさせ、そのものの機能を高めるという考え方はオーストラリアのブーメランなどにも現れています。きれいに装飾しないとよく飛ばないと考えられていたのですね。服においても飾りはお守りの意味を持っています。赤ちゃんや老人は白い飾りのない服を着ますが、位の高い人の服ほど多くの飾りを衣服につけるものです。袖口、すそ、襟に飾りをつけるのもお守りの意味があります。隙間から悪い霊が忍び込むかもしれない場所ですから。
窓はあの世とつながっていると考えられていたので カルドゥーンが死んだ時にはドアから出さずに窓から出して、すぐにあの世に行ってもどってこないようにしたものだそうです。(カルドゥーン:女性は「カルドゥーニア」。魔術師、占い師、魔法使い、まじないや薬草等を使う治療師、などさまざまな要素を含むことを行う人)
また「子どもを売る」という儀式もありました。小さな子どもの具合が悪くなると、母親は窓から乞食を呼び(黙ったまま手振りだけで)窓越しに子どもを渡して1カペイカで売ります。そして今度は自分がドアから出て行ってその子どもをとりもどします。これはいったん窓から出すことによって子どもをその子が出てきたところ(あの世)にもどし 今度はドアからつれて帰ることによってこの世に新しく生まれ変わらせる(元気になる)という意味なのです。
3)バーニャ(蒸し風呂小屋)の悪霊
ロシア人は蒸し風呂が好きで田舎に行くと、家の裏手にバーニャ(蒸し風呂用の小屋)があります。ここにはイコンが置いてありませんので、悪霊が暗躍しやすい危険な場所と考えられて昔から太陽が沈んだら一人で行ってはならない場所とされてきました。バーニャに現れる悪霊は、アブジェリーハ”обдериха”と呼ばれるもので”обдирать(生皮を剥ぐ)という言葉がもとになっています。私はある人から実際にこのバーニャで起こった惨劇の話を聞いたことがあるのです。10年くらい前のことですが彼の村でお祭りがありました。50キロほど離れた村に嫁に行っていた娘がこの祭りから帰ってきたのですが、ちょっと遅れてしまい彼の家に着いたときにはもう日が暮れかかっていました。「もう日暮れだからバーニャには行かない方がいいよ」と言ったのに、娘は「大急ぎでお風呂に入ってくるから大丈夫」と一人でバーニャに行ってしまいました。お祭りですので大勢のお客が集まり、庭先にテーブルを出してみんなでご馳走を食べていました。しばらくして娘が戻ってきてないことに気がついた彼は心配になってバーニャを見に行きました。もうすっかり暗くなっていて中がよく見えません。四隅を照らしてみても娘の姿はありません。それでふと上を見たところ 天井の梁になにか長いものがぶら下がっているのが見えました。それは長い髪の毛がついたままになっている頭の皮だったのです!彼の娘の体で残っていたのはそれだけだったのでした。こういう話をお聞きになってどう思われますか?作り話だと思われるでしょうか? 私はもう長い間こうした聞き取り調査をしているので、話し手の話し方や表情を見て、真実かどうかの判断ができます。またこの話は他の人たちからも聞いたのですが、だれから聞いても細かい点までほとんどぶれがなく、ほんとうに起こったことだとほぼ確信しています。
4)カルドゥーン(колдун)について
ロシアの村には今でも「カルドゥーン」(女性は「カルドゥーニア」。魔術師、占い師、魔法使い、まじないや薬草等を使う治療師、などさまざまな要素を含むことを行う人)と呼ばれる人たちが住んでいます。私は二―三年続けてアルハンゲリスクのそばの辺鄙な村に住むアーニャというカルドゥーニヤのところへ通い彼女が現在まで伝えられているその技を実際にどういう風に使うかを調査しました。カルドゥーンたちのことを、民族学者はこの世とあの世の橋渡しをする人たちだと考えています。なにか困ったことが起こった時に人々は彼らのところに助けを求めに来ます。彼らはある定められた儀式を行って問題を解決するのです。
私は大学で教えてもいますので、ある時学生たちをつれてこのアーニャというカルドゥーニャのところに調査に出かけました。ちょうど4−5歳の子どもが行方不明になって警察が2週間さがしても見つからないという時でした。警察が子どもの母に、カルドゥーニャに助けを求めてはどうかと助言し、私はその母とカルドゥーニャの話し合いに立ち会いました。母は子どもが夕方になっても家に帰ってこないことで子どもをひどく叱り「お前なんか悪魔につれていかれてしまえ」と言ったそうです。ロシアでは7歳までの子どもは「お客様」だからひどく叱ってはいけないと言われています。アーニャにどうするのかと聞くと真夜中に森に行ってレーシイ(森の精)に頼むと言います。さらに質問すると彼女はうるさがって「それなら私といっしょに森に真夜中にいらっしゃい」と言いました。しかし夜中に彼女の家に行ってみると彼女はもう森に出かけていなかったので私は彼女の家で数時間待っていました。彼女は服を裏返しに着て ポケットにパンとキャンディをいれ(レーシイへのプレゼント)真夜中に森の中の小道の交差するところへ出かけ、おまじないの言葉をさかさまに言いながらレーシイに「子どもはどこにいるのか教えて欲しい。」と呼びかけました。(あの世ではすべてがさかさまになっていると考えられています。)すると森から老人が現れて子どもがいる場所を教えてくれたのだそうです。パンとキャンディは木の根元に埋めて 彼女は後ろを振り返らずに家に帰って来ました。多くの民族の間で急に振り返るのは良くないことと言われています。なぜなら背中のすぐうしろにあの世があるからです。チェチェンの人たちは普段の生活でも急に振り向くことをしません。カルドゥーニャの言う場所に行ってみると、男の子は怪我もせず、おなかもすかせず、そこに立っていたのでした!以前に探したときにはいなかったのに、と警官は驚きました。男の子にだれのところにいたのかと聞くと、おじいさんが僕を連れて行った、ご飯を食べさせたりお風呂に入れたりしてくれたと言います。ソ連時代70年代だったら、こういうことを言う子どもは頭がおかしいということで病院行きになったことでしょう。最近ではこういう例は多くて病院送りにもなりません。同様の例では私の知っている限り、子どもが行方不明になっていた期間で一番長いのは3週間です。
現在でもロシアではこのカルドゥーンを信じる人たちがいます。そしてカルドゥーンの仕事は民族学者の研究の対象となっています。でもおおっぴらに「私はカルドゥーンです」と名乗る人はまずいません。調査に行く時にはまずその村に1−2週間滞在し、村の様子をじっくり観察します。すると誰がカルドゥーンなのかがだんだんわかってくるものです。私は彼らのところに話を聞きに行きます。最初は警戒してなかなか話をしてくれませんが、私が専門知識を持っており真剣に彼らの話を聞こうとしていることがわかって信用してもらえるようになると、しだいに打ち解けて様々な質問に答えてくれるようになります。
カルドゥーンやカルドゥーンの能力を信じる人たちのことをどう思われたでしょうか。カルドゥーンのような能力を持っていて人々に頼りにされている人たちの中には ズナーハリ(знахарь)、レーカリ(лекаь)と呼ばれている人たちもいます。いずれも自然に関する知識が豊富で、大工や陶工など専門の仕事を持っており、村ではリーダー的な役目を果たしている人たちであることが多いのです。現代人は自然を「征服すべき物」、「開発し変化させるべきもの」と考えています。しかしこれらの人たちは自然を「生きている人」のように感じており自然に対して「お前」と親しく語りかけます。自然に敵対したり征服したりすることはしないで 問題があれば自然とうまく「折り合いをつけて」解決しようとします。私はこの人たちを「遅れている」とか「愚かだ」とか言うべきではないと思っています。こういう考え方は厳しい自然と折り合いをつけてなんとかやっていくために、日々の生活の中で培われたものなのですから。
たとえば 深いタイガの中で道に迷ってしまったとしたら 現代人は恐怖のあまりパニックになってしまうに違いありません。村のおばあちゃんでしたらこういう時にはどうしたらよいのかを知っているのであわてません。まず服を裏返しに着て、落ちついて帰り道を考えます。なぜかというと、レーシイ(森の精)は人間に対してはよい感情を持ってないので、森の中で道に迷った人間には意地悪して帰り道がわからないようにするからです。レーシイの世界ではすべてが人間界とさかさまになっているので、服を裏返しに着ていれば、レーシイはその人は自分の世界のものだと認識して意地悪をしないので帰り道がわかるはずなのです。こんな風に自然と対峙する生活の中で困った状況になった時、なんとか落ち着いて問題を解決する助けになってくれたのが、自然を深く理解し心を開いて自然と向き合うことから生まれてきた言い伝えやカルドゥーンの知識だったのです。
9月11日はとても蒸し暑い日でしたが バラーノフ博士のお話を聞こうと手狭な仮事務所に多くの方が集まりました。ロシア館からモスクワ市の広報担当のユーリアさん、日本語通訳のナターシャさんも来られました。学者然として物静かなバラーノフさんですが、とても話がお上手です。世にも不思議なお話に引き込まれていたところ、いきなりパチッと電気が消えてみんなドキリ!ティータイムのためにお湯を沸かすのと冷房とで電気を使いすぎてブレーカーが落ちてしまったのでした。
バラーノフ博士は子どものころ、インディアンが出てくるお話が大好きでした。自分と違う文化の世界で生きている人たちに興味を持つようになり、「他の民族の生活様式を研究する仕事がある」というお母さんの助言もあって民族学者を目指すようになったのだそうです。聞き取り調査のために辺鄙な村に出向くことも多く、時には悪路をジープに乗り、川の洪水で道がなくなっていれば今度はゴムボートで先に進むというような冒険もされているそうで、まさに行動する学者ですね。
名古屋滞在は2ヶ月ほどでしたが、ロシア館でのお仕事の合間に名古屋を徒歩や自転車で散策されたほか、富士山に登ったり、伊勢神宮、金比羅、京都などにも足を伸ばして日本を満喫されたとのこと。このロシア語サロンの後は岐阜に鵜飼を見に行かれました。忙しくてご家族にお土産を買う時間もなかったそうで帰国前日にやっと奥様に浴衣、ご自分と小さい息子さんに甚平を買って9月29日にお帰りになりました。
(服部 記)