第57回ロシア語サロン  2005.5.15

       クリミア半島の旅             本庄テチアナ
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 クリミア半島は「眼を楽しませてくれる、夢のように美しい国」と言われ、多くの詩人、作曲家、画家達を魅了してきました。クリミア半島はよくオーストリア南部、カリフォルニア、フランスの海岸、ギリシャの島々と比べられますが世界地図を見てみると緯度は稚内と同じです。稚内に比べるとクリミアは気候が穏やかで暖かです。黒海に面したクリミア半島は海と山があり、独特の風景が見られて日本に似ています。それではクリミア半島の旅を中心となる町シンフェローポリから始めましょう。シンフェローポリは1784年にできました。クリミア半島はソ連のロシア共和国の一部でしたが1954年にウクライナ共和国に譲渡されました。さらに1991年にはウクライナの自治共和国になりました。現在シンフェローポリの人口は約34万人です。シンフェローポリは多くのすぐれた学者や作家や芸術家ゆかりの地です。プーシキン、ゴーゴリ、トルストイ、チェーホフなどがここを訪れ、ここの医学学校ではメンデレーエフが教鞭を取りました。シンフェローポリはクリミア半島の中心地で交通の要所でもあります。ここからは半島の南岸にある町ならどこへでも行く事ができます。たとえば アルシュタ、ヤルタ、スダック、ケルチ、エウパトリア、セヴァストーポリなど。

 今日はグルズフ村、ヤルタ、国立ニキーツキー植物園、リヴァジア宮殿、それに「ツバメの巣」に行ってみましょう。ヤルタは「アユーダック」という山からはじまります。これはタタール語で「熊」という意味です。この山は熊が水を飲んでいるような形に見えます。このアユ・ダックは南海岸の自然のシンボルです。ある日のこと、マーシェンカという小さな女の子が森にきのこを取りに出かけて道に迷ってしまいました。彼女は森の中で小屋をみつけて、そこに住んでいた熊たちと仲良くなりそこに住んでいたのですが 大人になった彼女はある日森の中で怪我をしたパイロットに出会いました。熊たちにはないしょでマーシャは彼の傷の手当てをしてやり二人は恋に落ちてしまいました。二人は逃げ出す事になり、青年はボートを作って2人は漕ぎ出しました。熊はこれを見てマーシャをとりかえすためにすべての水をのみほしてしまおうとしました。熊は飲んで、飲んで、、、とうとう石になってしまったということです。これが「アユーダック」の伝説です。

 アユーダックの反対側には、ピオネールの宿泊施設「アルテック」とグルズフという村があります。このグルズフも多くの詩人や画家や作家のゆかりの地です。1820年には二十歳のプーシキンがここで詩を書きました。チェーホフはここで「桜の園」や「三人姉妹」を書きました。グルズフのラグーンやアユダクの山や海辺の「アダララ」の断崖、シャリャーピンの断崖やプーシキンの洞窟は クリミア半島の南岸の素晴らしい景色です。グルズフの近くに1812年に作られた国立ニキーツキー植物園があり、ここでは何代にも渡って学者たちが世界各地から植物を集め、丁寧に世話をしてクリミアの地にに根付かせました。アフリカ、日本、ニュージーランドなどの植物があり、世界的にみても非常に珍しい植物もあります。ここには2000種類以上の薔薇、珍しいサボテンのコレクションもあり温室に植えられています。

 ヤルタはかつて「ヤリータ」「ジャリータ」「エタリータ」ともよばれた事がありますが文化的、科学的中心都市で人口10万人のにぎやかな町です。海に面したクリミアの山並みの南斜面にあり、シンフェローポリから南に79キロです。温暖な気候の保養地である事、娯楽施設が整っているという点でリビエラに匹敵する町です。チェーホフやナボーコフはヤルタが大好きでした。また多くの画家や作曲家、クラシックの演奏家、芸術家がヤルタを愛してきました。ヤルタは現在でもアーラ・プガチョワやその夫キルコーロフが訪れ、一流のアーティストが参加するフェスティヴァルが毎年行われる町です。ヤルタの町はポリクロフ、真ん中のダルサン、マガビという三つの丘の上に広がっています。ここでは四季がはっきりしていますが 冬は10日から14日しか続きません。

 ヤルタは貿易港であり観光港としても有名です。昔々コンスタンチノープルから新天地を求めて数隻の船が出港しました。黒海は嵐で大荒れとなり航海は大変でした。嵐がやんだ時今度は濃い霧が発生しました。いったいどこにいるのかもわからないまま海をさまよった水夫たちでしたが 食料も水もなくなって半死半生になった頃、水平線に緑の山が見えたのです。「ヤーロス、ヤーロス!」と見張りは叫びました。これはギリシャ語で「岸」という意味です。この時から町は「ヤルタ」と呼ばれるようになりました。

 ヤルタはまたワイングラスの音が似合う町です。ここには世界的に有名なワイン工場「マサンドラ」があり、シェリ-酒、マディラ酒、皇帝のポートワインなど素晴らしいワインが作られて、ブダペスト、ブリュッセル、プラハなどワインの製造で有名な町の国際コンクールで2回グランプリを取った他、170個もの金や銀のメダルを得ています。


 リヴァジアはヤルタから3キロのところにあり、ロシア皇帝の夏の宮殿でした。ずっと昔ここの深い森の中に大きな草地がありました。それでギリシャ語で草原をあらわす「リバディオン」という言葉からリヴァジアと名前がつきました。大昔にはここにギリシャ人の村があったようです。1840年にここに宮殿の建物ができ、40ヘクタールもある素晴らしい庭園も作られました。これらはすべてバトーツキー伯爵のものでした。1860年にリヴァジアが皇帝の領地になると、お抱え建築家のモニゲティが設計して宮殿が二つ、プール、温室や厩舎が建てられました。また庭園の中央部はかなり改造されて外国からエキゾチックな美しい植物が取り寄せられて庭園を飾りました。モニゲティの設計した建物で今でも残っているのはいくつかの事務所と宮殿附属の協会だけです。1911年に古い宮殿を壊して そこにインケルマン(セヴァストーポリのそばにある洞窟のある町)で採取された石を使ってルネサンス様式の白い宮殿が建てられました。1920年にリヴァジアは農民のための初のサナトリウムになりました。農民たちはここで休息し、療養し、また学ぶ事ができました。科学、政治、農業に関するレクチャーも聞くことができました。文盲撲滅のための講座も開設されました。

 1945年2月4日最初の改装後、リヴァジア宮殿の大広間でソ連、アメリカイギリスの首脳が集まりヤルタ会談がひらかれました。この会談はソ連、アメリカ、イギリスを中心とする反ヒトラー連合軍の団結にとって、またこの三国の軍事的政治的協力の強化にとって大きな意味を持っていました。この会談ではドイツを完全に打ち負かし無条件降伏させるための条件が決定されました。平和の維持と世界の安全のために国連の創設がきまりました。1993年にはリヴァジア宮殿は博物館になり、様々な国からの観光客がここを訪れています。

 南海岸には大変ユニークな建物としてシンボルとなっているのが「ツバメの巣」という城砦です。アイ・トドールという切り立った崖の真ん中の「オーロラ」という断崖に1912年に有名なモスクワの建築家シェルブットの設計で百万長者のシュテンドリッツ男爵が海に突き出したような城砦を建設しました。

 最初はこの城砦は「ゲネラリーフェ」と呼ばれていました。これは「運命の恋」という意味です。時代とともに持ち主も変りました。1917年に革命が起こり、さらに10年後に大きな地震がクリミアを襲い、断崖が崩れて城砦には幾つも大きなひび割れができました。しかし1972年にはすっかり修理され 歴史的な建物としてだけでなくイタリアンレストランとして多くの客を集めています。これで私たちのヤルタへの旅を終わりましょう。クリミアにはまだ多くの名所があります。でもそれらを見るには時間が必要です。もしクリミアを見たいと思われるのでしたら10日から2週間ほどの予定でいらしてください。そうすればゆっくりとクリミアの名所を見られることでしょう。

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