第48回ロシア語サロン  2003.2.23

バイカル湖の自然とその魅力   ジャルガル・ツァガーノフさん
 第48回ロシア語サロンが2月23日、ゲストにロシア連邦ブリヤート共和国出身のジャルガル・ツァガーノフさんをお招きして開かれました。お話のテーマはご自身がお勤めのロシア国立か科学アカデミー「バイカル自然研究所」にちなみ「バイカル湖の自然とその魅力」です。サロンには25名が参加してにぎやかに進行し、質問が飛び交いました。

 シベリアの豊かな自然の中でもバイカル湖は特別です。どのようにしてこの湖ができたのかは今でも謎のままです。バイカルは世界で一番深い湖です。深さは1641メートル、非常に質の良いその水の量は23000立方キロメートルもあり世界の貯水量の22%を占めています。賢い母なる自然はその愚かなこども達からこの生命力にあふれて井戸を遠くシベリアの真ん中に隠しておきました。数百万年かかって母なる大地はこの素晴らしいきれいな水の源を作り出しました。

 バイカルの特徴は非常に古い湖だと言うことです。できてから2500万年たっているのです。普通は1万年から2万年たっている湖は「年とった」湖だということになっているのですがバイカルは若いのです。そして他の湖は消えつつあったり、地表から姿を消してしまっていたりするのですが、バイカルにはそんな兆候はありません。反対に最近の調査の結果、地球物理学者たちはバイカルは海になりつつある、という仮説を立てているくらいです。

 336の大小の川がバイカルに流れ込んでいますがバイカルから流れ出ている川はたった一つ、流れが強くて急なアンガラ川です。その水はエニセイ川に注いでいます。これに関してブリャート人の伝説(父であるバイカルとその娘アンガラについて)があります。

 昔はバイカルは陽気で優しい人で美しい一人娘のアンガラを深く愛していました。ところが或る日バイカル老人が眠り込んだ時、アンガラはエニセイと言う青年のところへ逃げて行こうとしました。目を覚ましたバイカルは激怒して波をはねあげ、大きな山を打ってそこから岩をもぎ取り、逃げていく娘に投げつけました。それは娘の喉にあたりました。アンガラは泣きながら頼み始めました。「おとうさん、喉が渇いて死にそうよ。許してちょうだい。ほんの少しでいいから水を頂戴。」バイカルは怒って叫びました。「お前にやれるのは涙だけだ」それ以来数千年もアンガラ川からエニセイ川にこの涙が流れているのです。

 それ以降バイカルは陰気で気難しい老人になりました。バイカルが娘にむかって投げつけた岩は「シャーマンの岩」と呼ばれています。そこでは人々はバイカルにたくさんの捧げものをささげました。人々は言いました。「バイカルが怒るとシャーマンの岩をもぎ取る。すると水が流れ込んで洪水になる」そのシャーマンの岩は今でも昔と変わらずアンガラ川がバイカル湖から流れ出るところにあります。

 バイカルは非常にユニークな湖でここに生息する2630種類の動物や植物の60%は世界中でここだけにしかないものです。その中にはカジカに似た魚の「ガロミャンカ」斑入りあざらし、オームリという魚もあります。自然はバイカル湖に調和の取れた不思議な世界を作り出しました。すぐそばにはタイガや、半砂漠、ツンドラや草原があります。そして全ての花や木や鳥や動物がバイカルの水を守っているのです。

 もともとここに住んでいた人たちはバイカルを神聖なものと考え、多くの人がバイカルが湖ではなく賢い人であるかのようにおもっています。バイカルに関しては多くの伝説があり、ここに住むブリャート人は必要がなければ岸辺の石を湖に投げることすら遠慮しています。「バイカルがその石を波でそこに置いたのだからそれはそこにあるべきだ」と考えるのです。

 バイカルには22の島があり、一番大きな島は「アリホン」でシャーマニズムの儀式の場所になっています。シャーマニズムとは古来の宗教で全ての宗教の中で一番古いものです。シャーマンの儀式は世界中どこでも大変よく似ているのですがシャーマニズムはアジアで生まれたものだと考えられています。特にアジアの中央部と北部です。シャーマニズムは17−18世紀にシベリアで発見されそのごシャーマニズムが存在した証拠が世界中で発見されました。シャーマンの神話によるとシャーマニズムは世界ができたのと同時にでき、最初のシャーマンは空の息子だったということです。シャーマニズムの最後の砦のひとつがアリホン島でした。最近はシャーマニズムはシベリア以外でも大変人気があります。シャーマニズムはとても自然を敬う宗教であることは確かです。ブリャート人のシャーマンはよくヨーロッパに招かれますしそこには多くの信者がいます。ブリャートのどの村に行ってもシャーマンの名前糸住所はすぐわかります。

 ブリャート人はもともとバイカル湖のそばに住んでいた民族です。ブリャート人がどのようにしてバイカル湖のほとりに住むようになったかについてこういう伝説があります。神様がいろいろな民族に土地を分け与えていました。ブリャート人は時間をつぶすために座って歌を歌っているうちに何のために来たのかを忘れてしまいました。気がついた時には彼らの分の土地はもう残っていませんでした。騎馬民族であったブリャート人たちは旅立つ前に腹ごしらえをしようとして神様が一人ぼっちでいるのを見るといっしょに食事をしようと招きました。この陽気でお客好きなところが神様に気にいったので神様は「自分のために天国のようなところをとっておいたのだけれど、それじゃ、それをお前たちにやろう。北へ行け、大きな湖のところへ」と言いました。

 これは伝説にすぎませんが現在のブリャーチアの地に様々な民族が住んでいたことはここから出る出土品が証明しています。石器時代にはこれらの民族は狩をしたり魚をとったりしていました。青銅時代には石の板を使って墓を作る人たちに文化が現れました。彼らは石の板で囲んだ墓や岩肌や洞窟に描かれた絵を残しました。この時代の人たちは銅や青銅を加工することができ、金や青銅を使って素晴らしい装飾品や日常品を作りました。

 ブリャーチアの歴史で面白い時代は紀元前の最後の数世紀に石の板を使った人たちを追い出した「フンヌー人」にかかわりがあります。中央アジアで初めての国家を成立させ、数世紀にわたってこの地を支配した、いろいろな民族が集まった国はいくつかの小さな町と巨大な墓を残しました。フンヌー人は領土の北の境に前線基地をつくりました。これはニージュネ・イヴォウルギンスコエという町でこの遺跡はウラン・ウデの郊外に見ることができます。ブリャーチアの南たくさんの墓がたくさんあることは有名です。そのひとつはエリモヴァヤ渓谷のキャフトゥイ地区にあります。

 フンヌーの国家が崩壊したあと現在のブリャーチアの土地に住んでいた民族には様々な変化と移動がありました。ここにはシャニビ、クルィカニ、モンゴル語を話すキダニ、初期中世モンゴル民族、ツングース人の祖先などが住んでいました。こういう複雑な歴史的状況の中でブリャート人が形成されました。ブリャート人は大モンゴル族の北アジア族の中央アジアグループに属しています。

 ブリャート人の話す言葉はブリャート語でこれはアルタイ語系のモンゴルグループに属しています。方言は西と東に分かれています。モンゴル語とロシア語も広く使われています。ザバイカル地方(バイカル湖の東側)のブリャート人の大半は1930年までは古いモンゴル文字を使っていました。1931年からはラテン文字を使い、1939年からはロシア語のアルファベットを使っています。西部のブリャート人の大半はロシア正教を信じていますがシャーマニズムも残っていますしザバイカル地方のブリャート人は仏教徒です。

 ロシア人はザバイカル地方に3段階にわたって移住してきました。17世kにはコサックが、18−19世紀には古式分派(ロシア正教の旧教派)の人々が追放されてきて、そして19世紀末には農民たちが。これらの人たちはみなそれぞれ固有の文化を持ってきたのですが 中でも際立っていたのは古式分派の人たちの文化でした。

現在ではブリャーチアにはエベンク人、ロシア人、ウクライナ人、タタール人、ユダヤ人などが住んでいます。