第47回ロシア語サロン  2002.11.17

モスクワの地下鉄物語

           オレク・マローチキンさん
 第四十七回ロシア語サロンは、ゲストに名古屋大学に留学中のオレク・マーロチキンさん(モスクワ出身)をお迎えして11月17日に開かれました。お話のテーマは「モスクワの地下鉄」です。以下は、お話の要旨です。
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   モスクワの地下鉄の歴史 オレーク・マーロチキン

19世紀の初め、地下鉄ができたころは 地球で一番人口が多い年はロンドンで その人口は100万人でした。1836年に地下鉄の歴史上の大事件が起こりました。世界で初めて ロンドンに3,6キロの 地下鉄が走り始めたのです。それから ベルリン、ハンブルク、フィラデルフィア、マドリッド、バルセロナ、東京に地下鉄が登場しました。モスクワとペテルブルクの間でどちらに地下鉄を作るかで争いが始まりました。第一次大戦前に  モスクワの交通事情が非常に悪くなりました。1915年のモスクワの人口は2百万人に達したので その事情に合わせて 新しく地下鉄の計画ができました。

地下鉄は 首都に無くてはならないものとして作られ 常に 路線をひろげ、距離を伸ばしながら 交通の問題を解決に役立っています。機能の点でも 快適さの点でも 他の交通機関よりすぐれたものであることは確かです。

1902年に モスクワの地下鉄について二つの案がありました。その一つは エンジニアのバリンスキーとクノーレによるもので 全長105キロにわたる 3路線でした。28の陸橋といくつかのトンネルが計画されました。中央の駅は赤の広場のそばになるはずでした。

しかし 地下鉄の運命の転換点になったのは 1918年の 春に 政府がかつて首都であったモスクワに移ったことです。それまでのロシアの首都は1702年にピョートル大帝が作ったサンクトペテルブルクでした。

ソヴィエトロシアが 過酷な内戦と いまだかつてない国土の荒廃に苦しんでいた 1918−1920年にすでに モスクワ市役所の建築課では古いモスクワの町の改造計画が進んでいました。1918年の10月に  建築家サクーリンが 町の郊外の電車とつながった地下鉄の路線を計画しました。1922年には 専門家たちが 地下鉄の環状線と中心を通る直線の路線とその支線の計画を作りました。予定の路線がはっきりと決められ、試掘にもとづいて地層が調査され、地表からあまり深くないところにトンネルが作られました。

1925−1930年に 建築課の専門家たちは 4本の 直線の路線と一本の環状線の計画を立てました。(全長50キロ)1930年までに路線の図面の草案ができました。

モスクワの地下鉄の歴史は 1931年6月の共産党中央委員会総会で首都の問題が審議され、地下鉄建設の準備にただちに取り掛かる必要が認識された時から始まったと言ってよいでしょう。このために 「メトロストロイ」という非常に強力な建設組織が作られました。

1931年から1933年に 組織作りや準備がされました。「メトロストロイ」には 花崗岩などの採石場、工場、交通手段、建設労働者のための住宅基金が割り当てられました。基礎工事は1934年にはじまりました。1935年の5月までに駅の内装、すべての区間が連結、実際の運行の準備が完了しました。

モスクワの地下鉄の建設には 非常の多くの労働者が働きました。その数は かつてこの国でも 世界中でもなかったようなテンポで増えました。1934年の5月以降 その数は3万7千人から2倍の増えました。そんな急速なテンポを可能にしたのは 500以上に登る企業のおかげでした。かれらは駅の外装のために大理石や花崗岩を切り出し、セメントやレール、車両やエスカレーター、換気装置やポンプ、電気機器、エンジン、ブレーキなどを製造しました。その規模においてこれは 世紀の大事業のひとつでした。駅の内装のためだけに21キロにわたって大理石を敷き詰め 45キロのわたって花崗岩の板を敷いて 103キロにわたってしっくいを塗らなければなりませんでした。16.8キロのトンネルを掘るのに2年以上かかりました。ちょっと比較してみましょう。ロンドンの10キロの路線を作るのには4年かかり、ニューヨークの20キロの路線を敷くのに7年かかっています。

1935年の5月15日に最初の路線が開通しました。この日は ソビエト市民にとって「モスクワの輝かしい祝日」「世界最高の地下鉄を作り上げた、若き国家の勝利」となりました。ジャーナリストや作家や詩人たちは このすばらしい出来事を力のかぎり ほめたたえました。4日間の間に彼らの作品をあつめた 地下鉄開通記念誌「メトロ」が出版されました。

ソ連最初の地下鉄は 最新の科学技術を実用化したものでした。芸術作品がふんだんに使われ 地下鉄の建物の建設には 優れた建築家や芸術家たちが積極的に参加しました。
 

短期間に 13の駅につながる11キロの路線が複線化され、そのうちの4駅ではエスカレーターができました。 1935年の1月にはすでにサコーリニキーコムソモリスカヤ間で試験運転が始まり、 1935年の5月15日朝7時にモスクワの地下鉄の通常運転がはじまりました。地下鉄の建設はそれ以来第二次大戦中ですら休むとなく続けられました。 1937年には モスクワ川にかかる橋を通って 第2地区のスモレンスカヤからキエフ駅までが開通し 1938年にはマルキシツカヤからクールスク駅までと テアトラリナヤから ソーカル駅までが開通しました。

モスクワの地下鉄建設は だいたい3段階のわけることができます。

第一段階: 1935年から1955年までで 自然石や高価な素材を使った宮殿のような駅が造られました。できは彫刻やレリーフや絵、特別な照明器具で飾られました。駅の構内はとてもきれいでした。駅の外装には ウラル、アルタイ、中央アジア、カフカス、ウクライナなどあちこちから運ばれた20種類以上の大理石が使われ、また花崗岩やその他の高価な素材がつかわれました。

第二段階: 1955年から 1970年で ちょうど郊外に大規模な住宅が建設された時代に重なっています。ベッドタウンに新しい路線を大急ぎで伸ばさなければなりませんでした。駅や路面は地下ばかりでなく地上にもできました。駅は標準仕様の鉄筋コンクリートで 内装もタイルや大理石の粉など安い素材を使い、照明器具も簡単なものです。

第3段階: 60年代の終わりごろから 標準仕様で同じような駅を作るのではなく それぞれの駅が別個に設計されるようになりました。この段階は第一と第二の段階のよいところを合わせて持っています。自然石や絵や浅いレリーフ、独特のデザインの照明器具がまた使われるようになりました。

モスクワの地下鉄は 単に地下鉄の運行をしている企業というだけではなく 建築学上 ユニークな建物の集まりでもあります。国家が保護する重要文化財になっているのは クラースニエ・ヴァロータ(1935年) クロポトキンスカヤ(1935年) 1938年に作られたマヤコフスカヤ駅です。
12の駅が国から賞を受けていますし、クロポトキンスカヤとコムソモールスカヤ駅はブリュッセルの博覧会でグランプリを受けました。マヤコフスカヤ駅はニューヨークの博覧会で金メダルと多額の賞金を得ました。

プローシャチ・レヴォリューツィイの80体のブロンズ像、イズマイロフ講ねや環状線のベロルースカヤにある一連の彫刻、エレクトロザヴォツカヤ、ギナモ、環状線のアクチャーブリスカヤ、セミョーノフスカヤ、クラスノプレスネンスカヤ、その他多くの駅にある レリーフや紋章の絵は モスクワの地下鉄の建築スタイルの展示品です。

第二次大戦は モスクワの地下鉄の歴史の中の特別な一ページです。1941年の夏の終わりから 地下鉄の駅は空爆の際の市民の避難場所となり 車両の中では医者たちが働きました。「メトロストロイ」の工場では武器や弾薬が製造され 戦車が修理されました。いくつかの駅には役所が置かれました。

地下鉄は 1935年に開通した瞬間から 一番大事な交通手段となりました。モスクワ市民にとっては地下鉄は一番便利なのりものです。

モスクワの地下鉄は 路線の長さでは ニューヨーク、ロンドン、パリについで世界で4番目です。乗せるお客の数や本数では世界一です。一日に一千万人が乗り降りします。一年では 30億人です。

現在では路線の全長は 265キロで 駅は150です。
中央を通って直線でのびる路線が 12、環状線が一本です。一本の路線に始発から終着駅まで乗ると 平均50−60分かかります。

モスクワ市は 2010年までに 今の全路線の延長や建て直し、新しい路線を作ることについての決議を採択しました。 全路線を420キロまで伸ばすこと、40−45億人に乗客を増やすことが計画されています。

これは 「メトロー2」と名づけられた 秘密の路線の図です。1935年に地下鉄が開通する前に すでにこの秘密の地下鉄は存在していました。「メトロ2」のすべてのシステムは以前は KGBの15局が管理していましたが いまでは 連邦安全局に移行しています。

この路線は 「ヤーシク」という秘密の研究所が建設しまた 今でも建設しているのですが ここの職員はメトロストロイから募集されます。
この路線のシステムは 単線で トンネルは普通の路線の1,5倍の大きさの鉄筋コンクリートで造られています。

0路線: 1955年 12キロ

1路線:  1967年 27キロ
  クレムリンから ヴヌコヴォ2の政府専用空港まで
  (レーニンが丘のソ連大統領の旧住居―一万五千人を収容できるラメンキの地下都市―国家安全局― 国家安全局・暗号・通信研究所― 参謀本部経由)

2路線:(1987年 60キロ)
クレムリンから ボルまで(予備の参謀本部―戦争の時 ここからも指揮が取れるように)

3路線: (1987年 25キロ)
クレムリンからザリャー市へ。(2万人を収容できる軍事都市。)ここでは 地下120メートルのところに ロシアで最も秘密の軍事施設がある。(1100人が収容できる地下都市。対空部隊の司令部と 空軍と対空部隊の参謀本部があります)

4路線: 1996年
  スモレンスカヤから 防空壕や医療施設のあるバルビーハ(政府高官のダーチャなどがある。)まで。オセンナヤ通りのエリツィンの家のそばを通っている。