第46回ロシア語サロン  2002.9.29

コサックの伝統が消滅
       ウクライナ武術の興廃語る
                 
                アンドリィ・ポドリャーカさん
 
 第四十六回ロシア語サロンは、ゲストにウクライナ出身の若きスポーツマン、アンドリィ・ポドリャーカさんをお迎えして九月二十九日開かれました。お話のテーマは「ウクライナの武術」です。以下は、その要旨です。

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ウクライナの武術
             アンドリイ・ポドリャーカ    

今日は二つのテーマでお話します。最初は古代の武術についてお話しウクライナの歴史も少し触れたいと思います。これらの武術が使われた昔のできごとについて ほんの少しでもイメージを持っていただきたいからです。後半では伝統的なウクライナの格闘技から 現代のウクライナで若者や女性が取り組んでいる西洋や東洋の武術へと話を進めたいと思います。
  古代の歴史書によればスラブ民族によってウクライナの地に国家が最初に現れたのは9世紀のことでした。実際にはこの地には このずっと以前にスキタイ人の国家がありました。このスキタイ人というのは 紀元前4千年から2千年にかけて存在した謎の民族です。この国家については情報も少ないですし私はスキタイ人の武術については何も知りません。ですからスラブ人たちの話にもどりましょう。スラブ人たちスキタイ人より約2500年遅れて国を作りました。最初はスラブ人たちは 部族ごとにお互いに離れて住んでいました。ですから彼らの国は小さくて 互いにほとんど闘うことはありませんでした。9世紀の終わりごろにいろいろな部族をひとつに国に統一したのは クィー大公という人でした。彼はその国の首都を「クィーイフ」と名づけました。これはロシア語では「キエフ」と発音され、この町が今のウクライナの首都キエフです。この「クィー公」という人については 伝説しか残っていません。彼が存在したという証拠は今のところ発見されていません。9世紀の終わりにキエフを治めていたのが アスコリド公であったことには 証拠があります。10世紀の初めにこのアスコリド公をノルマン人のヴァイキングの長オレグが戦いに勝って殺しました。オレグはそれまで 幼いイーゴリ公の摂政としてノヴゴロドを治めていました。このイーゴリ公の子孫が次の100年間も古代国家キエフルーシを治めました。キエフルーシは南の国境を守るために騎馬民族であるペチェネグ人やボロヴェツ人と絶えず戦わなければなりませんでした。まさにこの時に古代の戦士たちの武術が発達したのです。当時の武術と言うのは主として刀や斧や楯をうまく操ることでした。これらの武器は非常の重く、その上戦士は 矢から身を守るために 思い鎖帷子と鉄のかぶとを身につけなければなりませんでした。そのような装備を身に付けるにはたいへんな体力が必要でした。その上戦士は馬に乗れなければなりませんでした。そのような古代の戦士は ボガティリ(勇士)とよばれました。このバガティリという言葉は現代のロシア語やウクライナ語に残っていて [肉体的に非常に強い人]という意味です。
オレグ公の支配の後300年ほどすると 封建的割拠時代が始まりました。そのお話に移る前に オレグ公のことについてちょっとお話します。歴史書によりますとヴィザンチウム帝国(東ローマ帝国)の首都であったコンスタンチノープルを何度も攻撃し この街の門に勝利の印に自分の楯を打ちつけたと言われています。しかし300年たつと このかつての栄光はその後すら残ってはいなかったのでした。封建的割拠時代の特徴は ひとつの大きな国家のかわりに 多くの小さな弱い国があって そこを治めていたのは多くのかつての支配者の子孫だったということです。そのせいで これらの国々はすべて チンギスハンの子孫であるモンゴル?タタール人の王、バトゥー汗によって征服されてしまいました。1241年にはキエフも征服されました。しかしモンゴル軍はロシア人との戦いによって弱体化したので 先へ進んでヨーロッパを征服することはできませんでした。

次の世紀にはウクライナの国土はモンゴル・タタール人の手からリトワニアの諸侯の手に渡り、リトワニア-ポーランド国家の一部となって「人民の共和国」と呼ばれるようになりました。なぜこの国が「共和国」と呼ばれたかといいますと もっとも裕福で権力のある貴族たちがこの国の王を選んだからです。この国では自由な農民の他に貴族たちの領土で働かされる、自由でない農民がたくさんいました。これを嫌って ウクライナの南部、ドニエプル流域の草原に逃げ出すものがあり、彼らはここに村を作りました。すぐそばにタタール人の住んでいるクリミア半島のあるこの地には人が住んでいませんでした。このタタール人たちは ウクライナやロシア、ポーランドに度々攻めてきました。タタール人は多くを殺戮し、物を奪い、奴隷として売るために人々を捕虜にしました。ドニエプル河畔の草原に逃げた農民たちはタタール人を攻撃し とらわれたウクライナ人を救い出すために軍隊を作ったのです。これらの闘う農民の村は「ザパローシュスカヤ・セーチ」と呼ばれました。この言葉のもとになったのは「パロク」(川の中にある大きな岩、このために船の航行はしばしば危険になる)という言葉です。「セーチ」というのは砦という意味で 村は「パロク」の「ザ」(むこうに)あったので こうよばれたわけです。またこれらの闘う農民たちは「コザック」と呼ばれましが これは「自由な人」という意味です。

この「ザパローシュスカヤ セーチ」は大変危険なところでした。タタール人がいつ攻めてくるかもしれないので ここのコザックたちは結婚することは許されませんでした。その上コザックは しばしば数ヶ月にも及ぶ行軍に行かなければなりませんでした。こういう行軍や闘いの中でコザックの戦闘能力が鍛えられました。当然ながらコザックは多くに時間を戦闘能力の強化のために使ったでしょう。彼らの武術は 素手での格闘、剣術(彼らの剣は古代の剣よりずっと軽くてタタール風に“サーベル”と呼ばれました)、乗馬でした。

コザックの素手での格闘はその動きが「ゴパック」と呼ばれる踊りによく似ています。この踊りの動きには柔軟性、機敏さ そして力が要求されます。この踊りによってコザックは 戦闘力を鍛えたのです。

しかし コザックがこのダンスをするのは 「サマゴン」というウオッカ(日本酒の3?4倍強いのですが)をかなりたくさん飲んだ時であることが多かったようです。そしてコザックは酒を飲み始めると 自分の両足で立っていられる間はずっと飲み続けたものでした。そんな状態では 「柔軟性や機敏さを鍛える」どころではなかったでしょうね。へべれけになるまで飲んでしまう、という習慣はウクライナの多くの村に(あるいはすべての村かもしれませんが)残っています。これは「闘いのためのゴパック」とよぶわけにはいきませんね。こういう武術は現在ではほとんど失われてしまいました。今ウクライナではごく少数の人が こういう武術をよみがえらせようとしています。でもずっと多くのウクライナ人が 東洋や西洋の格闘技をしています。

柔道と空手のクラブは沢山あります。大きな町には必ずありますし、あまり大きくない町にも。柔道や空手ほど有名ではありませんが 多くの大きな町では合気道、テコンドー、ウシュー(中国の武術の一種)も盛んです。

20世紀の中ごろにソ連では「サンボ」という競技が盛んでした。これは 世界的に有名な武術、柔道によく似ています。ウクライナには このサンボのクラブもあります。西洋の武術では ボクシングとキックボクシングが盛んです。しかし ボクシングやキックボクシングをしている人たちの多くは悪いことをする仲間に入ってしまうようです。ソ連時代の末期の10年間くらいにはもうかなりモラルが低下していましたが ソ連崩壊後には特にひどくなりました。このことは国の経済状態の悪化、ソ連崩壊後は人々は明日がどうなるかわからない、という不安にさいなまれたことが大いに影響しています。モラルの低下によってさらに 犯罪と汚職が増えました。ウクライナで武術を学ぶ人の多くにとっては 武術は 少しでも沈着冷静で自分に自信を持つための手段であり護身術でもあります。この面では武術は非常に役に立つと思います。
ごく少数の、武術に人生のすべてを捧げている人たちには、武術が精神と肉体を完璧なものにする手段とも 人生の意義ともなっています。ただ 私はこういう人は今のウクライナにはあまり多くはないと思います。