第36回ロシア語サロン  2001.4.15

突然の求婚に驚くアリビーナ先生

第36回ロシア語サロンは、ゲストにロシア語講座の新任講師アリビーナ・ブレンコーヴァ先生をお迎えして4月15日開かれました。アリビーナ先生は北サハリン(北樺太)出身。日本人のビジネスマンと結婚し、現在は浜松市にお住まいです。サハリンでの生活やご主人との出会いなどについてお話ししていただきました。

 私はサハリンの北にあるネフチェゴルスクで生まれました。この町は1995年の大地震で消滅してしまいましたが、ここはソ連全土から様々な民族の人々が来て仲良く暮らしていました。
 私の父はオリョール、母はオデッサ出身です。70年代の中頃、オハという町に引っ越しました。ここで高校を卒業し。ユジノサハリンスクの教育大学に進学し、科学と生物学を学ぶことになりました。良い先生や新しい友人(多くは朝鮮人でした)に恵まれ、生物学に夢中になったのですが、結局、大学院に進学して化学の教師になることを勧められました。
 そのためには教師としての実務経験が必要だったので、たまたまユジノサハリンスク近くのベレズニャキという小さな村に教師の口をみつけて就職しました。
 この村は、コムソモーレッツという資金の豊かなソホーズの傘下にあったのですが、当時、このソホーズの経営を指揮していたのは驚くべき人物でした。彼はベレズニャキに、都市の便利さを兼ね備えた豊かな未来の都市を建設しようと考えていたのです。
 当時のロシアでは、これはなかなか実現が難しいことでしたが、彼はベレズニャキに野菜の自動選別機を備えた倉庫を建設することを計画し、サハリン農業公団の援助を得て、北海道のホクレンと交渉しました。これは80年代の終わり頃で、変革の時代であったことも彼に味方して、この計画の実現にこぎつけたのです。そして、ホクレンに自動選別機を納めていた会社で私の未来の夫が働いていたのです。
 ベレズニャキには北海道と浜松から日本人スペシャリストがやって来て、次第に地元の人たちと仲良くなりました。ある日、私の家族の知り合いで、彼らの通訳を務めていた朝鮮人の方を通して、年配の日本人から「ロシアの学校を見学したいので是非あなたの授業を見せてください」と頼まれました。教務主任に許可を求めたところ、どういうわけか断られてしまいました。
 次にこの日本人と会ったとき、そう説明して断ろうかと悩んでいたのですが、この方は突然「日本人と結婚して日本へ行く気はありませんか」と言うのです。全く思いがけない言葉だったので、その時の私のリアクションは「だめ、ぜったいだめです!」でした。でも、それでもしつこく勧められたので、とにかく背の高い痩せた若い日本人と会ってみることにしました。彼は、ロシア語の単語をいくつか知っているだけでした。
 それからすぐ彼は出張を終えて帰国してしまったのですが、その後、彼からロシア語で書かれた愛の告白と結婚の申し込みの手紙が届いたのです。まだロシア語のよく分からない人が辞書を引いて書いたものなので、文法の間違いが多かったのですが、それが筆記体で書かれていたことにとても心を打たれました。
 こんな申し込みの手紙をもらって、とても断れません!でも、そうすれば化学とはもうお別れになってしまいます。彼はとても粘り強い人で、数十通の手紙を書き、彼の上司も彼をサハリンに出張させてくれくれ、応援してくれましたが、私が決心するまでに、結局3年かかりました。というわけで、私はもう9年も日本に住んでいるのです。