因縁の日本との出逢い V.カザーコフスカヤさん
第33回ロシア語サロンが11月19日(日)、愛知民主会館で開かれました。今回は、西シベリアの町ノヴォクズネツクにお住ま
いのヴェーラ・カザコーヴァ・カザコーフスカヤさん(59才)をゲストにお招きして、西シベリアのお話や、始めてあった日本人とのエピソードなどをテーマ
にお話ししていただきました。
カザコフスカヤさんは、日本人と結婚して岩倉市に住む娘さん(水野ヤナさん)を訪ねてこの10月初め来日しました。
第二次世界大戦が終わったとき、私は4歳と5ヵ月でした。小さな子どもでしたが、戦後の大変な時期をよく覚えています。
そのころケメロヴォ州にはたくさんの戦争捕虜がいました。新しい炭坑が開かれることになり、多くの日本人とドイツ人の捕虜が働かされていまし
た。
1946年生まれの私の弟は、日本人に命を助けられました。当時はまだ自動車はなく、主な交通機関は馬車でした。ある日のこと、赤ん坊だった弟
は、道の真ん中まで這って出ていってしまったのです。丁度そのとき、馬車が大変な速度で走ってきたのです。そのとき通りかかった一人の日本人捕虜が身の危
険もかえりみず、馬車の前に飛び出して間一髪、弟を助けてくれたのです。
それからしばらくして炭坑が開かれ、役目の終わった捕虜たちは何処かへ移動して姿を消しました。その後、彼らがどんな運命をたどったのか、私は
知りませんが、父や母が日本人捕虜のことを「いい人たちだった」と誉めていたのを覚えています。
父の家族は代々炭鉱で働いてきました。掘った石炭は馬に引かせて外へ運び出すのですが、この時、馬の轡を取るのが少年の仕事でした。私の父も十
四歳の時、この仕事を始めて、それからずっと炭鉱で働き、働きながら鉱山学の学校を卒業しました。後に炭鉱の責任者になりましたが、彼はとても発明の才能
のある人で、採炭の能率を上げる機械や事故の際の人命救助に役立つ機械などを次々と考案しました。この業績は高く評価されて、50年代から60年代に出版
された第2次世界大戦の歴史に関する本には父のことが書かれており、私たちはこの本を今も大切にしています。父の苗字は
ホディキンというのですが、この苗字の頭文字が「X」です。同様に昭和天皇の「ヒロヒト」もロシア語で表せば頭文字が「X」になります。そういうわけで、
ロシアの百科事典引くと父の名前は昭和天皇の隣に載っているのです。父はこのことを自慢にしていました。息子が日本人に命を助けられた時から日本を尊敬し
ていたからです。 また(本当かどうか分かりませんが)、父は、昭和天皇の名前が百科事典に載っているのは、天皇のおかげでロシアの極東地方が戦場になら
ずにすんだからだと信じていました。
下の娘のヤナは、トムスク国立大学の国際関係学部に入学して中国語を学び、北京の第二外国語大学に留学しました。そこで同じく留学していた日本
人と恋いに落ちて結婚し、日本に住むことになりました。
こういうわけで、ずっと昔から現在に至るまで我が家は日本人と縁があったわけです。今回初めて来日しましたが、町中どこも清潔なこと、技術力の
高さ(家電から手動泡だて機まで)に驚きました。ちょっと気になることは過剰包装は日本の文化かもしれませんが、ゴミ問題が深刻になっているようですね。
ロシアでは過剰包装をしませんからゴミ問題はありません。
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ロシア語サロンはこの4年間に33回開催され、多彩なゲストのお話を聞いてきました。ただ、最近は物珍しさがなくなったせいか、参加者が減ってき
ています。マンネリ化しているという声もあり、4年目に入って、これからの運営の仕方を考える時期にきているようです。後半の質問、おしゃべりタイムに発
言がしにくいとか、もっと気楽な雰囲気にしてほしいなどの意見も出ています。ロシア語サロンをみんなの役に立つものに、そして、より楽しめるものに育てて
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