ロシア語サロン 番外編    2011.5.22


「偉大な音楽家リヒテルについて」

                       アレクサンドル・ガラガノフ さん
   〜スピーチの後にミニコンサート〜

 

5月22日(日)午後2時から ロシア語サロン番外編が愛知民主会館2階ホールを会場に開催されました。ゲストはクラスノヤルスク出身のロシア人でクラシックギタリスト、アレクサンドル・ガラガノフさんです。せっかくですからスピーチの後にギターを聞かせていただくことにしました。

蒸し暑い日でした。アレクサンドルさんはビーチサンダルで登場!

初めてお会いした時「尊敬する音楽家はだれですか?」とお聞きしたところ即座に「リヒテルです!」と答えられたのが印象的でした。当日はスピーチの途中で何回かリヒテルの演奏のビデオを見せていただきました。リヒテルは偉大なピアニストであっただけでなく、人並み外れた記憶力と芸術的才能を持ち、幅広く社会的な活動もした人だったのでした。








スピーチ:

リヒテルについて
                      アレクサンドル・ガラガノフ

スヴァトスラフ・リヒテルの多方面にわたる活動や人物の大きさについて15分ばかりでお話するのはとても難しいことですが私の話をお聞きになってこの偉大な人物についていくらかおわかりいただき、彼の芸術に興味を持っていただけたら大変うれしく思います。
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リヒテルと同時代の人で、彼の崇拝者でもあった作曲家アルフレート・シュニトケ(リヒテルより少し年下)は音楽の歴史の中でのリヒテルを「現在と永遠を結ぶ鎖」と位置付けています。そして実際にリヒテルは私たちにとってモーツァルト、リスト、パガニーニやラフマニノフと同じように伝説の演奏家の一人として、つねに人生の道連れのような存在になっています。リヒテルの芸術はずっと以前、まだ彼が生きていたころから もっともすぐれた芸術的な価値があると評価されていました。彼のコンサートは単なる演奏ではなく、ひとつの特別な出来事であり、彼の解釈による音楽を聞くと人々はどうしても自分の存在の意義や短いそれぞれの個人の人生の中にある永遠のもの、またもっとも大切なものについて思いをめぐらさずにはいられないのでした。

リヒテルの出現は最初から奇跡のようでした。その素晴らしい出現はのちに彼の恩師となったモスクワ音楽院教授ゲンリッヒ・ネイガウスの回想録に次のように書かれています。

「学生たちが モスクワ音楽院の私のクラスに入りたいというオデッサから来た青年の演奏を聞いてほしいと言うのです。『その人は音楽学校を出ているのかね?』と私は尋ねました。『いいえ、まったく音楽教育は受けていません。』と言うので 実のところ、私は戸惑いました。きちんとした音楽教育を受けてない人間がモスクワ音楽院に入ろうとするなんて!そんな無謀な奴を見てやろうじゃないか、、と思いました。そして彼がやって来ました。背が高く痩せた青年で、金髪で青い目で とても生き生きとした魅力的な顔をしていました。彼はピアノの前に座り、鍵盤の上に大きくて柔軟な手を置いて弾き始めました。手は少し震えていたようでした。かなり押さえた弾き方で、シンプルできっちりしていました。私はその演奏にすっかりひきつけられてしまい、そばにいた女性の弟子に「彼は天才だと思うよ」とささやきました。その青年はベートーベンのソナタ28番の後に自分で作曲した曲を2-3曲弾きました。さらに楽譜を取り出してまた数曲自作の曲を弾きました。そこに人たちはみんな彼にもっともっと弾いて欲しいと思ったのでした。」

「もっともっと弾いてほしい」という言葉は その時からリヒテルのコンサートの聴衆がとりつかれてしまった「いやしがたい渇き」を非常に簡単にそして正確にあらわした表現です。この強い欲求は私たちが今日、録音された彼の演奏を聞く時にも湧きおこります。彼の演奏に強く惹きつけられて離れることができないのです。

リヒテルの演奏がこんなに強く作用するのは 彼の精神世界の計りしれない豊かさがその演奏に密接にかかわっているからです。スヴァストラフ・リヒテルはまさにルネッサンス的人間でした。彼の才能は非常に多岐にわたり、彼の知力は10人の人間に匹敵するものでした。彼は画家としても有名ですが、画家としての才能がなければドビッシーやラヴェルの曲の演奏に色彩が贅沢に盛り込まれることはなかったでしょう。リヒテルが信念を貫き、精神的に自立していたことは彼が自らの芸術において妥協を許さなかったことに直接的につながっています。そのことは彼の芸術家としての主な特徴の一つでもありました。

彼は「私は何よりもまずその音楽が理解したい。私が大切にするのは音楽そのものだ。私は音楽のしもべだ。」と彼は言いました。そしてその音楽に献身的に仕え、どんな力にも屈しませんでした。リヒテルは決して音楽の世界での流行を追うことはありませんでした。音楽の世界でもある種の流行があり、それに従わないことは結構大変なのですが。世間で広く受け入れられているような決まりとか禁止されていることなどがあれば、彼はかえってそれに刺激されてそういう決まりに反する実験をしたくなってしまうのでした。

「ダメと言われたら、楽しいんだよね。」とある時発言しています。彼は誰も弾く人がなかった時代にシューベルトのソナタを弾きました。リムスキーコルサコフやドボルザーク、グラズノフのあまり演奏されないコンチェルトを弾き、当時まったく知られてなかったプロコーフィエフのコンチェルト第5番を弾きました。そしてベルグやシマノフスキー、ヒンデミット、ヤナーチェク、コープランド、フランク、ミスコーフスキーやレーゲルの曲をコンサートの曲目に取り入れました。またヘンデルやグリーグの曲で当時評価されてなかった曲も紹介しました。こうして当時のレパートリーの常識を覆したことでリヒテルは演奏だけでなく、社会的行動においても自分の考えを貫き、妥協しないという態度を示したのでした。「私は雑食動物だ。私はたくさんのことがしたい。名誉欲があるからでもなく、すぐに飽きて放り出してしまうからでもない。ただ 私には好きなものがたくさんあり、常にそのすべてを聴衆に届けたいという思いに駆られているのだ。」とリヒテルは語っています。

ここで初めのお話にもどってリヒテルのとてもユニークな、とてつもなく広い範囲に渡る活動や彼の特別の才能である、「様々な別の音楽家になりきることができる」ことについてお話しましょう。ネイガウスは書いています。「彼が様々な作曲家の曲を弾くと、まるでそれぞれ別のピアニストが弾いているように聞こえた。ピアノも違い、音も違い、コントラストの明るさも違う。」このような「変身」の秘密は分析できるものではありません。しかし、私たちを驚かせ、限りなく喜ばせてくれるものです。

リヒテルの芸術は他のだれもが到達できず、これからもできないでしょうが、彼は非常に大きな知的遺産を残してくれました。天才リヒテルが私たちに永遠にその豊かさを理解し、それを楽しめるようにしてくれたのは天のめぐみというものです。

モナシール・ヤクボフの論文「リヒテルへの贈り物」2007年3月より
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リヒテルの仕事の能力はただ普通のノルマ達成の域を越えたものでした。私はここに芸術家としてのリヒテルに特有の情熱を感じるのです。ある時期彼は毎日夜も仕事をしていました。昼間だけでは足りないのです。ある時、レニングラードでのすばらしいコンサートの後で、リヒテルは急いで夕食を取るとフィルハーモニーの小ホールに出かけて、そこで朝の3時まで仕事をしました。そして10時にはまたピアノの前に座っていたのです。

こういうことがよくありました。このようなつらい、延々と続く、鉄の持久力を必要とする仕事ぶりを見るとなぜか私の頭に浮かぶのは人間に火を与えたプロメテウスでした。仕事における彼のがんばりは大変なものでした。厳しく完璧を求め、全てにおいて天才的で仕事の割り振りは正確でした。それはまるで「自分の中で聞いているものを表現してしまいたい」という強い気持ちが彼を働かせているようでした。彼が自分の中に持っている限りなく大きな世界が外へ出て、はっきりと姿を現したいと要求していたのでした。

リヒテルの友人でもあったピアニスト、 ヴェーラ・ゴルノスターエヴァの論文より
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舞台に立った55年間の間に、リヒテルは36カ国で3600回以上のコンサートを開きました。彼のレパートリーは広く、コンサートが80回できるほど様々な曲を弾きこなしました。この200年の間に有名な作曲家によって書かれたものでならシンフォニーでもオペラでも すべてリヒテルは暗記していたのです。

ディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウの回想より
「ある日、リヒテルと私はシューマンのあるオラトリオについて話をしていました。すると彼はすぐにピアノに向かい、このオラトリオの序曲をそらで弾いてみせたのでした。ドイツでもこのオラトリオのことを思い出せる人はまずいないというのに。まったく驚くべき事でした。」

リヒテルの生涯
スヴァトスラフ・テオフィロヴィッチ・リヒテル(1915年3月20日ウクライナのジトーミル生れ、1997年モスクワで死亡)はドイツ系ロシア人のピアニストで子供時代、青年時代をオデッサで過ごしました。父親はウィーンで教育を受けたピアニスト、オルガニストで、リヒテルは彼にピアノを習い、16歳からオペラ劇場の伴奏ピアニストになりました。1934年に最初のコンサートを開きました。独学の後、22歳でモスクワ音楽院に入学、ゲンリッヒ・ネイガウスに師事しました。1940年に公式にコンサートデビューし、この時はプロコフィエフのソナタ第6番を演奏しました。後にプロコフィエフのソナタ第7番と9番のソナタの初演をすることになりましたが第9番のソナタはリヒテルにささげられたものでした。舞台に立つようになるとすぐに非常にスケールの大きい巨匠として評価されるようになりましたが1940−50年代は政府は彼をソ連邦や親ソヴィエトの国々の外へ出ることを許しませんでした。1960年になってやっと彼はフィンランドとアメリカでデビューしてセンセーションを巻き起こしました。1961−62年にはイギリス、フランス、イタリア、オーストリアで公演しました。リヒテルが中心となって1964年からトゥーラで音楽祭が開かれるようになり、モスクワでは1980年からプーシキン美術館で「12月の演奏会」が開かれています。1993年からはモスクワ郊外の町タルスで音楽祭が開かれています。晩年の10-15年ほどはリヒテルは田舎の町の小さなホールで好んで演奏しました。

ソ連とロシアの音楽家と音楽愛好者にとってリヒテルは単に優れたピアニストであるだけではなく、最高の芸術的、精神的権威であり、 まさに現代の世界的音楽家であり啓蒙家でありました。リヒテルのレパートリーは限りなく多く、演奏活動の最後の数年まで増え続けました。その中にはバッハの「平均律クラヴィーア曲集」、ヘンデルの組曲からガーシュウィンのコンチェルト、ウェーベルンのヴァリエーション、ストラヴィンスキーの「ドゥヴィージニー」などもあり、様々な時代の作品におよびました。全ての曲においてリヒテルは作品の楽譜に指示された作曲家の意図を忠実に守って、細部に気を配り、余計な装飾を排除するとともに、他の演奏家が追随できない高いレベルで、ドラマチックな活力を与え、精神集中することにより 自分自身がたぐいまれな芸術家であることを示したのでした。リヒテルはとても日本が好きでした。1970年から1996年までに9回も来日して公演しています。1996年は死の前年でした。彼は歌舞妓が大好きでした。八ヶ岳には彼のためにコンサートホールが建てられました。また日本で彼の映画が作られました。
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スピーチをするアレクサンドルさん。











休憩の後ギターを聞かせていただきました。まずスペインの小品を一曲、そして ロシアの作曲家ビクトル・カズローフの「ハラヴォート」 ”хоровод"(輪になって踊るダンス)です。






























  うっとり〜

  参加者が20名と少なかったのが大変残念でした。









   参加者の中にロシアの楽器バラライカをご持参の方がありました。「ロシア人ならバラライカが弾けるだろうから教えてほしい」とおっしゃるのですが、、「習ったことはないけど、、」と言いながらもすぐに曲が弾けるアレクサンドルさんでした。















奥様の山口美夕鶴さんはヴァイオリニスト、素敵なカップルです。お二人は留学先のスイスで結婚されたのだそうです。










コンサートの後、美夕鶴さんもいっしょにロシアの音楽教育についてのお話もしてくださいました。日本では普通子供が楽器を習うとしたら週に一回のレッスンですが ロシアでは週に2回が普通なのだそうです。また美夕鶴さんのお話ではロシアではバラライカなど伝統的な楽器を習う子供がたくさんいたそうです。そして日本人にとってのギターのイメージは 独習で趣味程度に弾く、歌の伴奏、、といったもので子供の時からお稽古に通って習うものという発想がないという話にもなりました。アレクサンドルさんはもともとはロックが好きでギターを手にしました。12歳からギターを始め、クラシックの曲を練習しているうちにどんどんクラシックギターの魅力に引き付けられてしまったとのことでした。大好きな音楽を仕事に選んだことについては両親からの反対はまったくなく、弟さんもプロではありませんがギターを弾かれるそうです。今後は日本でコンサートをやって行きたいとのことで、奥様の美夕鶴さんとのデュオ でも活動されています。宗次ホールでのコンサートの計画もあるそうで、応援したいですね。ご活躍をお祈りしています。
 Желаем Вам больших успехов в работе!
                       
服部 和


ロシア語スピーチ原稿

 О Святославе Рихтере

Очень трудно уложить всю многогранность и масштаб личности Святослава Рихтера в пятнадцатиминутный рассказ. Но я надеюсь, что после моего доклада у вас сложится определенное представление об этом грандиозном человеке, а также возникнет интерес к его творчеству, его жизни.


 «Соединительное звено между настоящим и вечностью» — так определил место Святослава Теофиловича Рихтера в музыкальной истории его младший современник и страстный почитатель, композитор Альфред Шнитке. И действительно, каким-то непостижимым образом Рихтер воспринимается нами в том ряду «вечных спутников» человечества, в котором стоят такие легендарные исполнители прошлого, как Моцарт, Лист, Паганини, Рахманинов...

Искусство Святослава Рихтера уже давно, еще при жизни гениального музыканта, сделалось синонимом высших художественных ценностей. Его концерты оказывались не выступлениями, а поступками, его интерпретации заставляли думать и догадываться о цели существования, о непреходящем, вечном и всеобщем в частной, отдельной и кратковременной нашей жизни, о самом важном и драгоценном.

С самого начала явление Рихтера было подобно чуду. Этот чудесный факт запечатлен в воспоминаниях его учителя, профессора Московской Консерватории, Генриха Нейгауза: «Студенты попросили послушать молодого человека из Одессы, который хотел бы поступить в консерваторию, в мой класс. «Он уже окончил музыкальную школу?» — спросил я. «Нет, он нигде не учился». Признаюсь, этот ответ несколько озадачивал... Человек, не получивший музыкального образования, собирался поступать в консерваторию! Интересно было посмотреть на смельчака. И вот он пришел. Высокий, худощавый юноша, светловолосый, синеглазый, с живым, удивительно привлекательным лицом. Он сел за рояль, положил на клавиши большие, мягкие, нервные руки и заиграл. Играл он очень сдержанно, я бы сказал, даже подчеркнуто просто, строго. Его исполнение захватило меня. Я шепнул своей ученице: «По-моему, он гениальный музыкант». После Двадцать восьмой сонаты Бетховена юноша сыграл несколько своих сочинений, читал с листа. И всем присутствующим хотелось, чтобы он играл еще и еще...»
«Хотелось, чтобы он играл еще и еще» — поразительно простое и идеально точное выражение неутолимой жажды, которая с тех пор охватывала слушателей на концертах Рихтера. Это волнующее желание сохраняется и доныне, при слушании его записей: от них невозможно оторваться.

Гипнотическая сила воздействия великого музыканта связана с уникальным, безмерным богатством его духовного мира. Святослав Рихтер был подлинно ренессансной личностью. Феноменального разнообразия его дарований и колоссальной мощи его интеллекта хватило бы, кажется, на десяток ярких индивидуумов. Всем известен его талант живописца, без которого, вероятно, не было бы ошеломляющей роскоши красок в его прочтениях Дебюсси и Равеля.

С нравственной независимостью прямо и неразрывно связана и творческая бескомпромиссность, составляющая одну из главных черт артистического облика Рихтера. «Я хочу прежде всего познавать музыку. Меня интересует сама музыка, я — слуга музыки», — говорил он. И его служение было беззаветным и непреклонным. Рихтер никогда не следовал моде, которая, как известно, в музыкальной повседневности имеет немалую власть. «Общепринятые» установления и запреты могли для него быть и прямым стимулом к эксперименту противодействия. «Если нельзя, то особенно приятно», — сказал он в одном из разговоров.

Он играл сонаты Шуберта, когда их не играли вовсе. Он исполнял малоиграемые концерты Римского-Корсакова, Дворжака, Глазунова, совершенно неизвестный в те годы Пятый концерт Прокофьева, он вводил в концертный репертуар сочинения Берга и Шимановского, Яначека и Хиндемита, Копленда, Франка, Мясковского, Регера... Но также — незаслуженно обделенные вниманием произведения Генделя и Грига. В этих нарушениях репертуарных обыкновений Рихтер проявлял тот же принцип независимости и бескомпромиссности, что и в своем общественном существовании.

  «Я существо всеядное, и мне многого хочется, — говорил Рихтер. — И не потому, что я честолюбив или разбрасываюсь... Просто я многое люблю, и меня никогда не оставляет желание донести все любимое мною до слушателей».

Здесь я возвращаюсь к тому, с чего начал, — к уникальной многогранности этой творческой фигуры и к исключительному рихтеровскому дару артистического перевоплощения. «Когда он играет разных авторов, кажется, что играют разные пианисты, — писал Нейгауз. — Рояль другой, звук другой, свет другой...» Тайна такого перевоплощения плохо поддается анализу, но оставляет беспредельные просторы для удивления, восхищения.

Искусство Святослава Рихтера было и остается недосягаемым, его духовное наследие неисчерпаемо. Оставленная нам гением возможность бесконечно долго познавать это богатство и наслаждаться им — счастливый удел.

Из Статьи "Приношение Святославу Рихтеру" 20 марта 2007
Автор: Манашир Якубов



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Способность Рихтера работать не укладывается в рамки обычных представлений о норме. Здесь, как мне кажется, проявляется неистов¬ство, размах темперамента, отличающего Рихтера-художника. Бывали периоды в его жизни, когда он постоянно занимался ночами: дня не хватало. Как-то в Ленинграде после превосходного концерта он, на¬скоро поужинав, пошел в Малый зал филармонии и занимался там до трех часов ночи. А в десять утра следующего дня уже сидел за роялем. Такие случаи для него не исключение.

Когда я сталкиваюсь с этим изнуряющим, бесконечным, рассчитан¬ным на железную выносливость трудом, мне почему-то всегда прихо¬дит в голову сравнение с Прометеем, добывающим людям огонь. Его неудержимость в работе поражает. И при этом какая страсть к совер¬шенству, какая гениальная, точная режиссура целого! Словно его за¬ставляет работать неутолимая жажда высказать то, что он слышит внутри себя. Все эти огромные миры, которые он носит в себе, требу¬ют выхода, воплощения...
Из Статьи: Святослав Рихтер

Автор: Вера Горностаева


За 55 лет работы на сцене Святослав Рихтер дал более 3600 концертов в 36 странах мира. Его репертуар состоял из более восьмидесяти концертных вечеров. Музыкант знал наизусть практически все произведения, которые были написаны известными композиторами в течение 200 лет, включая симфонические и оперные произведения.
Из воспоминаний Дитрих Фишер-Дискау:
« Однажды мы с Рихтером беседовали об одной оратории Шумана, и он тут же сел за рояль и исполнил увертюру из этой оратории, наизусть. Это было тем более поразительно, что едва ли в Германии найдется сейчас человек, который мог бы вспомнить эту ораторию»


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Краткая биография:
Рихтер, Святослав Теофилович (20.3.1915, Житомир, – 1.8.1997, Москва). Русский пианист с немецкими корнями. Детство и юность провел в Одессе, где учился у своего отца, пианиста и органиста, получившего образование в Вене, и с 16ти работал концертмейстером оперного театра. Свой первый концерт дал в 1934 году. В возрасте 22х лет, формально будучи самоучкой, поступил в Московскую консерваторию, где учился у Генриха Нейгауза. В 1940 впервые публично выступил в Москве, исполнив 6-ю сонату Прокофьева; впоследствии стал первым исполнителем его 7-й и 9-й сонат (последняя посвящена Рихтеру). С первых же шагов на профессиональном поприще воспринимался как музыкант и виртуоз исключительного масштаба. В 1940–50-х годах власти не выпускали Рихтера за пределы СССР и стран советского блока; лишь в 1960 он сенсационно дебютировал в Финляндии и США, а в 1961–62 – в Великобритании, Франции, Италии и Австрии. По инициативе Рихтера были учреждены фестивали Музыкальные празднества в Туре (1964) и Декабрьские вечера в Музее Имени Пушкина в Москве (1980), а также музыкальный фестиваль в Тарусе (проводится с 1993). Последние 10–15 лет Рихтер предпочитал выступать в небольших залах провинциальных городов.
Для нескольких поколений советских и российских музыкантов и любителей музыки Рихтер был не только выдающимся пианистом, но и носителем высочайшего артистического и нравственного авторитета, олицетворением современного универсального музыканта-просветителя. Огромный репертуар Рихтера, расширявшийся вплоть до последних лет его активной жизни, включал музыку разных эпох, от «Хорошо темперированного клавира» Баха и сюит Генделя до Концерта Гершвина, Вариаций Веберна и «Движений» Стравинского. Во всех репертуарных сферах Рихтер проявил себя как уникальный художник, сочетающий абсолютную объективность подхода к нотному тексту (тщательное следование авторским указаниям, уверенный контроль над деталями, избегание риторических преувеличений) с необычайно высоким драматическим тонусом и духовной сосредоточенностью интерпретации.


Так же хочу сказать, что Рихтер очень любил Японию, куда девять раз приезжал с гастролями, начиная с 1970го года, причем  в последний раз в 1996м году, за год до своей смерти.
Восхищался театром Кабуки.
В  Яцугатаке  специально для Рихтера был построен концертный зал.
Также, в Японии был снят фильм о Рихтере.





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