モスクワの新型コロナウィルス感染拡大
が止まらない。渡航から一ヶ月で筆者も早速感染し、18日間の自宅療養を余儀なくされた。3度目のPCR検査で晴れて陰性となり、長かった自宅
謹慎が解かれると、今度はモスクワ全体がロックダウンに入ってしまった。新型コロナウィルスに対するロシア人の危機感は非常に薄い。発熱中に往診に来てく
れたヨーロピアンメディカルセンターのロシア人医師は、PCR検査をしながら「陽性だといいわね、早
くかかって免疫を得たほうがいい」と言った。驚くべきことに、この「感染して免疫を獲得する」という危険な考え方が、ロシアでのスタンダードらしい。医者
が公にそう言ってしまえば、市民は真面目に感染対策をするはずがない。自宅謹慎期間の終盤、かねてより連絡を取っていたバルコニーの修理業者から電話が
あった。コロナに感染し、まだ陰性確認が取れていないため訪問は改めて別日にと提案したにもかかわらず、「マスクをして行くから」と押し切られてしまっ
た。ここモスクワでなぜこうも感染拡大が止まらないのか――その理由を、この目ではっきりと見てしまった気がした。 現在のようなモスクワの酷い感染状況が
さらに続いていけば、音楽院生たちのキャリア形成にも悪い影響を及ぼしかねない。ピアノやヴァイオリンをはじめとする実技専攻の学生は、学業と並行して日
々ステージ用の演奏レパートリーを増やし、演奏家としてのキャリアを築くために、国内外のコンクールに絶えずエントリーしている。10月、ポーランドでは3週間にわたり第18回ショパン国際ピアノコンクールが開催
され、そのファイナリスト12名のうち3名はモスクワ音楽院に縁のあるピアニス
トであった。ロシアの音楽教育のレベルの高さ、そしていわゆる「ロシアピアニズム」が、3人の素晴らしい音楽家を通じて改めて世
界にアピールされた大会だったのではないだろうか。しかし今年の夏以降、他のコンクールでは、開催国の在ロシア大使館がモスクワ在住の予備予選通過者への
ビザ発行を拒むケースが増えている。国際的なプロへの登竜門とされるような中〜大規模コンクールは、通常数年に一度開催され、予備審査(演奏の映像・過去
の受賞歴と学歴・指導者や著名な音楽家からの推薦状を提出)を通過すると現地に召集される。本大会に内定する実力と経歴がありながら、「モスクワに住所が
ある」というだけで拒絶されてしまうのは恐ろしく、悲しい。仮に次回大会を目指そうとしても、年齢制限で諦めざるを得ない人も出てくるだろう。「モスク
ワっ子」若手音楽家にとってのこの空白の期間はいつまで続くのだろうか。 2022年の上半期には、日本でも高松と仙台で
二つの国際ピアノコンクールが予定されているが、モスクワからの応募者に対してどのような措置がとられるのか気になるところである。実力のあるロシアの若
手ピアニストたちの夢とチャンスが絶たれないように――モスクワの新型コロナウィルスの感染状況が一刻も早くおさまるように――ただそれだけを祈るばかり
だ。 斎藤もも――ピアニスト、音楽学者。愛知県立芸術大
学および同大学院を経て、2017年にモスクワ音楽院に留学。2020年に大学院ピアノ科を修了、現在は博士
課程ロシア音楽史研究科に所属。日露青年交流センター2021年度日本人フェロー。研究課題:「19世紀ロシアピアニズムに基づくニコラ
イ・メトネルの教育活動」。 |