カザフスタンの思いで

充実した半年の体験    城内 繁(浜松在住)

<はじめに>
 99年11月から半年間、日本ユーラシア協会の紹介で、中央アジアのカザフスタンにある国立経営アカデミー(大学)の日本語教師とし て勤務しました。単身赴任で、郷里には90歳の父と86歳の母を残していたので、親の死に目に会えないと覚悟はしていましたが、5月に母が重態で入院し、 父の介護が必要だと聞き、学年末テスト後の6月、大学を辞めて帰国しました。母はもう意識がありませんでしたが、8月に亡くなるまで病床に付き添いができ たのは不幸中の幸いでした。「好事魔多し」の譬えどおり、自分は長年の夢を実現し、しかも家族みんな安泰とは甘い考えでした。しかし、別のボランティア団 体から、ロシアでの日本語教師の話があると、再び夢の続きをという気持ちも捨て切れません。日本にいれば、アッという間に過ぎる半年でしたが、私にとって は充実した貴重な体験でした。
<カザフスタンという国>
 赴任前、私も正直言って「旧ソ連のシルクロード沿いにある中央アジアの遊牧民族の国」程度の知識しかありませんでした。当時、隣国の キルギスで日本人技師のグループが武装ゲリラに人質にされた事件があり、家族は心配しましたが、カザフスタンはロシアに隣接していて政情は比較的安定して いると聞き、安心しました。
 カザフスタンは人口1700万人で、ロシア人40%、カザフ人36%。国土は東西3000キロメートル、南北1500キロメートルと広大で、日 本の7倍もあります。カザフとは「自由人」の意味で、元来トルコ系の遊牧民。顔つきは日本人とよく似ているため、私は街でカザフ人と間違えられ、よく道を 聞かれました。
 私のいた旧首都アルマトイは札幌と同じ緯度で、ゆるやかな高地にあり、遠くの雪をかぶったアルタイ山脈が見事です。アルマトイは以前、アルマ・ アタ(林檎の父)と呼ばれていました。人口110万人、シルクロードの天山北路(天山山脈北麓の草原の道)の要衝で、海抜800メートル。冬は零下20 度、夏は40度で、昼と夜の気温差が激しい所です。晴天から急に曇り、突風が吹いたりします。変わりやすい大陸性の気候で、雨も少ない。到着した11月、 道には根雪が凍りついており、3月の終わりにようやく融けました。5月に雪が降ったこともあるそうです。私のいた時は、冬は零下15度、帰国した6月は 30度でしたが、湿度が低いので蒸し暑くなく、日陰や室内は涼しかったです。
 カザフスタンはウズベキスタンとの間に国境問題があり、また中国とも国境が近いため、近年、中央部のアスタナに首都を移転しました。
 ソ連時代、北東にあるセミパラチンスクの原爆実験場で450回以上も核実験が繰り返されました。その放射能汚染により、住民や家畜に奇形が生ま れるなど、いまだに悲惨な影響が残っています。だから学生たちも東京に次いで、被爆都市広島と長崎の名前をよく知っています。

日本語を学ぶ学生
<サシミヲタベルトコドモガデキマスカ?>
 私は、一年生と三年生の約30人を相手に週10時限(80分授業)を担当しました。彼らは、9月から野本後を習い始めたばかりで、平 仮名、片仮名の読み書きがやっとの状態でした。日本語専攻の外国語大学と異なり、彼らは経済、経営が専攻のため、外国語は「お付き合い」という感じで、テ キストも筆記用具も持たずに授業に出て来る者もいました。
 「ペンを忘れた学生は、鉄砲を忘れた兵士と同じだ」というとニヤニヤ笑い、「シゲル先生、鉄砲を貸してください」と厚かましく鉛筆を借りにきま す。
テキストは日本の教科書をもとにワープロで手製、ロシア語の翻訳を手書きし、同僚の日本人教師と共有のコピー機で準備するので、土日の休みも忙し い状況でした。大学には専用のコピー機はなく、コピー用紙も自己負担です。以前はテキストを授業の度に貸し出し、終わると回収していましたが、学生が自宅 に持ち帰れないため、コピー配布に改めたということです。
 彼らが日本語を選んだ理由は、経済大国日本への憧れ、市内の日本商社への就職など様々です。驚くのは、授業中に入り口のドアを開けて友人が仲間 を呼び出すこと、「出てもいいですか」と、途中で席を外すこと、おしゃべりは当たり前です。極端な例ですが、机の下でトランプ占いを始めた者もいました。
国立大学といっても、施設だけが国で、あとは独立採算のため、副業にホテルも経営しています。金を出せば、裏口入学できるとか、ソ連時代の方が教 育制度も学生の質もずっと良かったと言われています。テストもカンニングを堂々とやるので、私は教室に一人ずつ呼んで口頭試験にしました。択一問題で、日 本なら分からなくてもどれか一つ答えるのに、ここでは「分かりません」と、実におおらかなもの。
 普通、日本語の教え方には、身振り手振り、全て日本語でやる直説法がありますが、彼らがまだ習い始めのため、私はロシア語で文法を説明しながら 教えました。私が彼らの日本語を直すと、彼らも私のロシア語を直してくれます。
 4年生になっても漢字はおろか、平仮名も満足に書けない者もいると聞き、やさしい漢字百二文字を毎回6回づつ筆順をつけて宿題にしたところ、全 員が熱心に続け、書けるようになりました。私たちがアラビア文字を見て、どう書くのか迷うように、「鳥」「聞く」など、彼らには複雑なようでした。「なぜ 日本語は全部平仮名で書かないのか」という質問もありました。動詞は「書きます」をマス形、「書く」を辞書形と教え、普通は「デス、マス」の丁寧体を使う ように教えました。
 卒業生で日本商社で働いている女性から「アナタハエイゴガワカルカ」と聞かれ、ドキッとしたこともありました。彼らにとって、「アタタカカッ タ」とか「ニッポンジンノイエデハクツヲヌガナケレバナライ」は、舌がもつれるようです。「サシミヲタベルトコドモガデキマスカ」と言うので、聞き返すと 「刺身を食べることができますか」でした。
 女子学生と男子学生が出会うと互いに右頬をくっつけてチュッと挨拶します。私が帰国すると聞いた可愛い女子学生がお別れにと私の頬にチュッとや り、自分にもと言う。私は照れて日本人の習慣じゃないからと、握手して別れました。
 

粗食で4kgも痩せる
<月給6千円で生活費は1万円>
 赴任前、大学から貰う月給は1万円だと聞いていましたが、実際は他のカザフ人教師並で6千円(外国人は我々日本人二人だけ)でした。 契約書は着任後にサインしましたが、初めからボランティアのつもりだったので、薄給でもないよりはましと思いました。
 ただし、食料品も市場では日本の十分の一のため、生活費も1万円で済みます。アパート代は大学の負担。赴任旅費24万円と帰国費用10万円は個 人負担です。 
 赴任前、前任の同僚が「どこへも行かず、酒も飲まず、薬も買わず」で、月1万円で生活できると手紙に書いてきたときは信じられませんでした。例 えば米1kg50円、牛乳1リットル50円、ジャガイモ1kg24円、牛肉1kg160円と、確かに安い。その一方で輸入品のうがい用プラスチック製コッ プは何と640円もしました。
 アパートは3部屋あり、一人では広すぎました。一日中スチーム暖房が効いているので、寒い夜帰宅した時はありがたく、洗濯物(手洗い)も一晩で 乾きました。暖房は「切り」のスイッチがないので、夜などは布団をはねのけるほど暑く、無人の昼間もつけっぱなしなのでたいへん無駄な気がしました。
 水道水は米の研ぎ汁のように白く濁っているので、生では飲めず、炭酸入りのミネラルウォーターを飲んでいました。朝は黒パン、昼は大学でポテト 入りピロシキ、夜はご飯に餃子入り野菜スープか鯖の缶詰(一番近い海、カスピ海まで汽車で三日もかかるので、魚は薫製か鯉のような川魚ばかり)という粗食 のせいか、半年で4kgも痩せました。ビールもヴォトカもほとんど飲みませんでした。

<貧しいけれども陽気なカザフ人>
 日本ではゴミ捨て場をあさるのはカラスか野良猫ぐらいですが、ここでは人間もあさっており、やはり貧しい国だと感じました。市場や大 学の通用門、トロリーバスの停留所にも乞食が立っています。小学生くらいの男の子が店の中で物乞いをしています。
 ソ連時代は鉱物資源、農産物の供給を分担していましたが、独立後は全て自給自足しなければならず、消費物資の生産が遅れ、食料品以外はほとんど 輸入に頼っています。バスやトロリーバスはドイツ製のオンボロ車が走っており、マイカーの排ガス規制もなく大気を汚染しています。アルマイト市の北部は低 くなっており、排ガスが霧のように溜まっているときがあります。そのため喉をやられて休む生徒が目立ちました。
 カザフ人は陽気で、お祭り好き。酒を飲んで道端に寝込んだりしても通行人は知らん顔です。本来、イスラム教は禁酒のはずですが、ロシア人が酒の 味を教えたということです。
 カザフ人はカザフ語とロシア語を母語として話しますが、ロシア人はロシア語しか話しません。カザフスタンには百近い民族が混在していますが、民 族対立もなく、仲良く暮らしていると彼らは自慢しています。第二次世界大戦当時、ドイツ人や極東から朝鮮人が送り込まれてきました。知り合いの朝鮮人によ れば、スターリンが「もし、日本と戦争になったら、ロシア人以外はみんな日本人だから撃ってもよい」と言ったそうです。私が市場で買い物をしていると、必 ず「中国人か朝鮮人か」と聞かれます。「日本人だ」と言うと、ロシア人の売り子は「見ろ、こりゃ本物の日本人だぞ。おまけにロシア語をしゃべるぜ」と驚 き、まるで動物園のパンダでも見るように
人が囲むのです。
 会議でも授業でも、定刻開始の日本と違い、全てがのんびりで、決して急ぎません。私のアパートに大学の事務員が修理箇所チェックのために1時に 来るというので待っていましたが来ない。諦めて市場へ出かけた後にやって来ました。日本なら遅れる旨電話するところです。同僚に話すと「ここは日本ではな いですよ」と言われてしまいました。

 
城内さん(右端)と3年生のクラスメンバー

試験に手心要求
<公正さよりも身びいき>
 5月に4年生の卒業試験の試験官を頼まれました。同僚は4年生担当のため外されたのです。すると、仲間の事務員がやってきて「親戚の学生に5は いらないが4をつけてほしい。3ではだめだ」と干渉します。当日、英語教師や事務局員4、5人が「この学生をよろしく」と言ってきました。同僚によれば、 本人は60日のうち、たった3日しか出席していないということでした。
 さて、本人はあらかじめ予告したテーマについては何とか日本語で話しましたが、聞き返すとさっぱり駄目。メモは平仮名でなくロシア文字で日本語 の発音が書いてある。ためしに「実習ではどんな仕事をしましたか」と聞いても返事がありません。ロシア語で聞いても日本語が出てきません。2をつけると卒 業ができないため、まけて3にしました。
 試験終了後、学部長までが「日本語は世界中で一番難しい言葉。彼は未来ある若者だ。4をつけてくれ」という始末。「公明正大にやりたいから彼一 人だけというのは駄目だ」と突っぱねました。
 翌日、女性の外国語部長に会うと「あなたが断ったから可哀相に彼女(女子事務員)は泣いていた。出席率が悪いのは教師の責任だ」という。私も 「もしソ連時代だったら、あなたは銃殺されただろう」と言い返してやりました。
 同僚によれば、本人はいつもテストは欠席し、前回は女子事務員が強引に4をつけさせたということでした。テストの前日、教師に花をプレゼントし たり、菓子や飲み物を持参し、それを試験官が飲み食いする習慣が当たり前になっています。当然、私は当日のパーティに呼ばれませんでした。数日後、くだん の女子事務員に会うと、もうケロリとしていました。いつまでも根に持たないおおらかなカザフ人よーです。
「日本人はお金持ち」
 すでに帰国した前任者は高校の英語教師を定年退職した人で、夏休みに自費で2名を日本に招待したり、日本の高校に留学させたり、アルマトイ駐在 の日本商社に就職を斡旋するなど活躍したため、大学は「教授」の肩書きを与えました。ただでも日本は経済、技術大国だと憧れているのに、年金生活者でさえ 豊かな暮らしをしていると、カザフの人達は羨みます。
 市内をトヨタ、ニッサン、ホンダなどの日本車が走っています。市内の発電所や劇場など日本人抑留者の手になる建物がいまだに完全に残っていて、 日本人の技術の他kさが伝えられています。私が日本の柔道選手団と隣国ウズベキスタンの首都タシケントを4月に訪れた時、案内してくれた現地の人は、抑留 者の建てた30メートル以上もある石柱の立つオペラを見せてくれて、大地震でも壊れなかったと、誇らしげに「日本人の優秀さ」を、あたかも自分たちの事の ように語ってくれました。

純朴で優しい心
<人を見たら泥棒と思え>
 どのアパートや一戸建ての家も、窓は鉄格子がはめられ、ドアの鍵も2カ所あります。夜の一人歩きは危険だと言われましたが、幸い危険な目には遭 いませんでした。
 大学の通用口にはガードマンがいて、学生も教職員も入門証の写真をチェックします。顔見知りのガードマンでも、私がタシケントへ行くためボスト ンバッグを持って出ようとしたら、中を見せろと言うのです。ビルの3階にある日本大使館は、空港のように金属探知器をくぐらなければ入れません。
 外国人の客が多いデラックス・スーパーでは、食料品売り場の隅に自動小銃を持ったガードマンが警備しています。日本からの小包は毎回無事に届き ましたが、手紙は郵便受けから盗まれるので、いつも近くの大学経営のホテルが預かってくれました。手紙は最寄りの郵便局留めが一番安全だということでし た。
 番犬としてドーベルマンやシェパードのような大型犬を飼っている人も多く、日本の治安の良さを外国へ来てみて初めて実感しました。
<おわりに>
 以上やや否定的な面ばかりに触れたきらいがありますが、ここで感心したことにも触れてみたいと思います。
 バスに乗ると、老人には子供も大人もすぐに席を譲ります。持てるものは持たざるものに与えよというイスラムの教えの影響か、道端の乞食に施しを する人をかなり見かけます。
 日本では、人が死ぬと火葬するのが普通だと言うと、死者にそんな酷い仕打ちをするのかと顔を曇らせます。ここでは棺なしで毛布にくるんで土葬す るのが普通のようです。
 3年生の女子学生が橇で足を骨折して1ヶ月ほど休んだとき、仲間がプリントを毎日届けてやり、本人も自宅で大いに勉強して、テストでは見事百点 を取りました。その彼女が記念にくれた本には「おもしろい授業どもありがとうございます。あなたはすばらしい教師です。お母様の健康状態が良くなると思っ ています」(原文のまま)と書いてありました。日本語を習い始めてまだ1年にもならないのに、一生懸命書いた文章は、たとえ間違っていても心打つものがあ ります。物質に恵まれた日本に比べ、とかく不便を感じる遠いカザフスタンで、我々日本人が失った純朴で優しい心に触れた思いでは今も心に刻み込まれていま す。(終)