ベラルーシ・ウクライナ 一人歩記 
                                会員 成沢 聖美
幸いしたビザの取得
警官のチェックに面食らう

 ロシアヘは何度も足を運んでいる私ですが、今回初めてベラルーシとウクライナを訪れることができました。旧ソ連諸国はまず、ビザ取得から始めなければならず、かなり面倒です。ロシアのビザ取得は、いろい
ろ手段を知っているのでそれほどでもありませんが、これらの国は初めてなので旅行店にお願いしました。

 ただ、どちらも現地にる知人に招待状を発治してもらったので、案外簡単に取得できました。特にウクライナは、知人の名前と住所を書くだけで発行してもらえました。

 もちろん、切符は現地で自ら購入しました。モスクワのベラルーシ駅は初めてなので窓口探しから始まりました。どの駅もそうですが、外国人専用の窓口があり、しかも、開いている時間がまちまちで、私が行った時は一か所しか開いておらず、かなり待たされました。学生割引が廃止されたらしく、正規の外国人料金で二〇ドル弱でした。

  夜十一時前の発車なので、心もとなく知人のロシア人に送ってもらいました。いつも思うことですが、安い列車はホームに入るのが遅いように感じます。「赤い矢」号(特急)などは三十分以上前に乗り込めたのですが、今回は十五分前にしした。か乗り込めず、寒さに震えながらホームで待つ羽目になりました。

 車内は意外に混んでいて、クーペ四人分は満席。同乗者は劇団のマネージャーで、元女優さん。かなり美しいロシア語を話し、私にはちょうど良い練習になりまた。約九時間の道のりで、パスポートコントロールもない区間なので、安心して眠れました。

 翌朝、ミンスクのホームに降り立ち、すぐに知人に会えず、うろうろしていると、軍隊のような恰好をした警察官に、早速パスポートコントロールを受けました。ミンスクで働いている日本人の知人に、モスクワと違ってパスポートコントロールにも会わず、治安もかなりいいと聞いていたので面食らいました。

 その時は、中国人が捕まっており、どうやら国境の入国審査がないため、ビザなしで入ってくるアジア系の人間が多いので、警察もチェックする体制に変わったようです。ピザなしで来ることも考えていましたが、記念になると思って取得しておいたのが幸いしました。街の中ではその後、一切のコントロールを受けなかったので、駅だけのことのようでした。

いつも満員の地下鉄
物価はモスクワの半分

 彼女の家はミンスクの目抜き通りにあり、まさに中心地という所でした。車の数も少なく、かなり騒音のない静かな街というイメージを持ちました。看板ははとんどないし、街も小さい。両替所がなかなか見つからず、両替ができずに困りました。

 ドルで受け取れるキャッシュディスペンサーもないので、結局、少しずつベラルーシ・ルーブルの現金を下ろして使うことになりました。下ろすのにかなり気を使いました。想像以上に物価が安いため、お金を下ろしすぎることになりかねないからです。

 単純にモスクワの半分。そして価格統制のため、異様な端数が常に値段に書かれています。5279pという具合で、一桁までしっかりと書かれています。よほどの達人でもなければ、値段を覚えてカッサ(カウンター)で買うのは難しいでしょう。メモがないととても不便でした。しかも、無駄に小銭ばかり増えてしまって・・・。

 地下鉄は2路線で、常に満員状態でした。というのも、走行距離が短いうえ、路線が少ないので、お客さんが始めから最後まで乗車するというパターンが多いからではないかと思います。記念に一区間乗ってみて、思わず乗るんじゃなかったと後悔しました。それほど押し合いへし合いの状態で利用価値は少なく、バスやトロリーバスの方がよはど便利でした。

 そして、見所は非常に少ない街でした。歴史的な出来事といえば第2次世界大戦くらい。何もかもロシアと混ざっています。お土産にしてもロシアとダブル物が多く、特にベラルーシらしい物は見当たりませんでした。

 レストランでは、パテオピザやマックがありました。最近は、外資系のレストランやフィットネスタラブができつつあるようで、ここに住んでいる外国人にとっては嬉しいニュースのようです。

 レストランも、モスクワの半分といったところです。そのクラスのレストランならば、モスクワで二十ドルくらいの物が十ドル前後でした。店内の内装やサービスは、かなりきちんとしており、客もニューリッチなのか、結構おりました。

一昔前のソ連が存在
厳しく放射能を測定

 外国人慣れしていないからか、時折り、ロシア語が通じない時がありました。その時の(相手の)表情も実にロシア的で、何とも愛想がない。最近のモスクワは結構サービスが浸透しているのに、ここには一昔前のソ連がありました。

 こんな町中でもスーパーマーケットは数軒あり、外国人はそこか、市場で買い物をするといいます。市場では、放射能汚染物が入り込まないように厳しくチェックをするそうなのでモスクワと違って、かなり安心して買い物ができるようです。友達の職場にも汚染測定器なるものがあり、たまに買い物をしたあと、品物を測ってみるといいます。これまでのところ、大丈夫だったそうです。ロシアに住んでいる私たちとの決定的な違いはここでしょう。私は冗談で「放射能に汚染されているかもね」と言うくらいで、全く気にも留めずに買い物をしていました。

 しかし、ミンスクでは、食品にかなり気を遣っていました。乳製品も肉類も国産品は買わないし、野菜は市場やスーパーで輸入物を買っています。厳しい現実を垣間見た気がしました。

 滞在中、観光らしい観光は、ポリショイ劇場にバレエを観に行ったくらいで、後は本当にのんぴりさせてもらいました。街の雰囲気も、セカセカした様子がなく、ゆったりと時が流れている感じでした。みんなロシア語を話し、ベラルーシ語を話す人はほとんどいませんでした。

 逆に、変にロシア語も変化せずにここまで来ているので、ロシア語を学習するにはうってつけかもしれません。在留邦人もミンスクで十三人程度で、良い環境が整っているように思いました。今度留学するなら、ミンスクもいいなと思いました。
    
賑やかなキエフの通り
  無情の入国審査に驚き

 ミンスクから夜行列車でキエフに向かいました。この列車は要注意です。グループ詐欺や国境でのトラブルが結構あるようです。車内で車掌から入国カードをもらい、入国審査の時にスタンプをもらわないと帰る時に罰金を取られるということです。カードを配るも配らないも車掌の気まぐれ、という感じなので自分から貰いに行かないと駄目かもしれません。私は、たまたま向こうが配ってくれて助かりました。

 そして真夜中の入国審査。確か夜中の三時ごろだったと思います。持ち込み額以上の持ち出しは禁止だと知人から聞いていました。私はとんど現金は持っていないので関係ありませんでしたが、同じクーペのいかついお兄さんは、来るときより現金が増えていて、三〇〇〇$くらいを素直に申告したため、ミンスクへ逆戻りになってしまいました。

 「袖の下」は適用しないらしく、かなり無情。当然といえば当然ですが、ロシアで賄賂馴れしていたので、かなり新鮮に写りました。

 翌朝キエフに到着。ウクライナ人の知り合いが迎えに来てくれて、彼の自宅へ案内されました。住宅事情はモスクワと似たりよったりです。彼の家は二軒続きでかなりの広さでした。

 すぐに彼が市内観光に連れていってくれました。まず驚いたのは、ATMが結構あったことです。ただし、ここもウクライナ・グリンでしか下ろせませんでした。街は賑やかで、目抜き通りのフレシチャーティク通り沿いはモスクワを彷彿させるはどでした。
 ただこの通り沿いには、今やモスクワでは見られなくなったツィガーン(ジプシー)がけっこういて、私がバスに乗った時も、ウクライナ人のおばさんが財布をすられる被害に遭っていました。要注意です。

 インターネットカフェ、アイスクリーム屋、スーパーなど、楽しめるだけの環境は揃っていて、散策するにはもってこいの素敵な街でした。

聖人のミイラに恐怖し、親切な駅の対応に感動

 キエフでは、ペチエールスカヤ大修道院へまず行きました。以前、ロシアのプスコーフにあるウスペンスキー教会内の洞窟修道院を訪れて以来、ずっと来てみたかったので、今回の旅の一つの目的でした。しかも、こちらの洞窟はプスコーフよりもずっと大きい。個人での入場はできないので、ガイドと一緒に十人くらいのグループで中に入りました。

 道々思ったことですが、本当の信者、しかもかなり熱心な信者の方々ばかりで、観光目的で付いてきた自分が少し恥ずかしかった。そのくらいみんな、熱心に質問し、洞窟内の聖者のミイラに祈りを捧げていました。本当に狭い通路なのですが、かなりの人が行き交っており、私などは窒息しそうだとか、迷子になったら恐ろしいとかいう幻想を抱きながら、必死にみんなの後を追いかけていました。真っ暗閣とミイラで、私には、さながらお化け屋敷(ごめんなさい)の感じでした。

 駅で、次の目的地ルーマニアへの切符を購入しましたが、対応はたいへん親切でした。ロシアに長くいると、そういうところで感動を覚えてしまいます。ウクライナ語と微妙に違うのですが、ロシア語を話せればほとんど問題なく、驚きました。ただ、年配の人と話す時は、さすがに昔のきちんとしたウクライナ語で、理解できない部分もありましたが、それでも意志疎通はできました。

 経済が悪化して治安が悪くなったというウクライナですが、モスクワに比べればキエフはまだ落ち着いており、(お金を掬られ、やむなく路上で寝ていた日本人が追剥強盗に遭ったのは問題外として)昔の情緒がたっぶり残っているように思いました。
 

(筆者は、県連会員。プーシキン大学に留学し、ロシア語に堪能)