第六回ユーラシア友好の旅
目前にチェルノブイリ原発 旅行者として初めての訪問

 
 日本ユーラシア協会愛知県連主催の「第6回ユーラシア友好の旅=ウクライナとモスクワの旅」 (8月16日−25日の10日間)に6名が参加しました。ウクライナでは、旅行者として初めて、世界を震撼させた大惨事のチェルノブイリ原発を訪れ、凄惨な状況を目の当たりにするなど貴重な体験をしました。(体験記は別項)

 今回の旅行は、できるだけ日本語のガイドを付けず、参加者自身のプランと耳、口を頼りに行われました。幸い、メンバーにはロシア語講座受講者が多く、道を尋ねたり買い物をしたり、地下鉄の表示を読んだりするのに、全く問題はありませんでした。

 ウクライナでは、チェルノブイリ原発の他、古都キエフ市内の見物を初め、キエフからクリミア自治共和国の首都シンフェローポリまで約15時問の夜行列車の旅を体験しました。また、ヤルタでは、戦後の日本の運命を決めたヤルタ会が行われたリバーディア宮殿を見学、まぎれもない歴史の跡を確かめてきました。

 ヤルタは有数の保養地なので、保養客や黒海での海水浴客で大変賑わっていました。また、有名なクリミア・ワインの一つ「マサンドラ」 のワインセンターで十種類ものワインを試飲することもできました。

 モスクワで特筆することは、かつて愛知県連のロシア語講師を勤められたリーマ・バズヂエンコワ先生の二人のお嬢さん、アナスターシアさんとアレクサンドラさんの案内で、普通のパック旅行では、まず訪れないというイズマイロフスキー公園のオープンマーケット「ベルニサーシュ」(お土産品と骨董、絵画が中心)を訪れたことです。

 このマーケットは土、目に開催され、私たちが訪れたのは土曜日だったので、ものすごい人出で、前に進むのに、人をかき分け、かき分けしてやっと進むという状態でした。

 それだけにスリやひったくり、置き引きが多く「大変危険」で、しかも「汚い所」だから注意しなさいと、二人のお嬢さんは言います。

 とはいえ、品物は市内の土産店の半額以下と安く、例えば、日本で買えば一万円以上はするルバーシカ(ロシア風シャツ)がなんとわずか400ルーブル(約1600円)で買えました。

 今回の旅行は、一人の病人や怪我人、大きなトラブルもなく、収穫の多い十日間でした。再びロシアやウクライナを訪れる機会があったら、是非参加したいと思います。  (河西)


チェルノブイリ原発を訪ねて 1
胸を打たれた六人の消防士モニュメント

 今回の旅のハイライトは「チェルノブイリ原発」の訪問でした。あの世界を震撼させた大惨事から17年余の歳月が経ちました。旅の計画書には「原発を遠望できる所からの視案」ということで、現地が今、どんな状況にあるのか、事故処理の状況、汚染された環境の現状、住民の問題など、果してこの目で確かめることができるのかどうか、期待と不安が入り交じっていました。

 快晴の8月18日朝、私たちは日本語通訳のヴアレンチーナ・モロゾーヴァさん(プリヤート人)の案内で、日本製(三菱)のマイクロバスに乗ってキエフを出発、一路北へ約80キロのチェルノブイリ市へ向かいました。車は、森と牧草地、麦畑が広がる黒土の大地をひたすら走りました。途中の村々では、リンゴやナシ、スモモがたわわに実り、牧草地では牛の群れがのんびりと草を食んでおり、いたって平和な光景が続いていました。

   車はやがて「30キロ地点」 の検問所にさしかかりました。原発から半径30キロ以内は未だに放射線量が多くて危険なので関係者以外は一切立入禁止になっています。

 (ああ、ここで降ろされるんだな)と思いました。ところがゲートが開けられて車は進行。聞けば、ウクライナの非常事態省から「特別の許可」が出ていたということでした。

 チェルノブイリ市に入って、まず胸を打たれたのは「六人の消防士のモニュメント」でした。事故直後、最初に現場へ突入し、多量の放射線を浴びて亡くなった勇敢な六人の消防士を讃えて造られたそうです。

 チエルノブイリ市は、原発から南へ約10キロにあり、住民は強制移住になって今は無人の街です。ただ、非常事態省のスタッフが四千人ほどおり、ここで四日間(月−木)働いて週末にキエフへ帰るグループと、半月働いて後の半月はキエフへ帰るグループに分かれているということでした。

 私たちは、非常事態省の接待所へ案内され、ここで同省広報課のユーリー・タクルチュークさんの説明を受けました。この接待所は、各国から訪れる原発関係者や研究者、技術者らを接待する所だということです。ユーリーさんは旅行者としてここを訪れたのは、私たちが初めてだと言っていました。

 確かにここは観光地ではありませんし、一般人は立ち入り禁止の地域です。普通のツアー旅行では、まずコースには入らないでしょう。普通の旅行者として私たちが初めてだというのもあながちお世辞ではなさそうでした。   (続く)
 
 
 
 



チェルノブイリ原発を訪ねて 2
後遺症で四十万人が死亡か十七年経っても問題が山積

 原発事故は、1986年4月26日午前1時23分に発生しました。第四発電ブロック(原子炉)の出力調整テスト中、突然、熱出力が上がって核暴走が起き、原子炉が二度にわたって爆発、火災が発生して大量の放射線が放出しました。

 この火災で、先の六人の消防士の他、30人が致死量の放射線を浴びて亡くなっています。また、その後の処理作業に、現在まで延べ80万人が携わり、その半分が癌などの後遺症で亡くなったと推定されていますが、正確な統計はないそうです。

 原発から半径30キロ以内に住んでいた住民約十万人は強制的に移住させられ、チェルノブイリ市や原発のあるプリビヤチ市(当時の人口約3万人)などは、今は廃墟となっていますが、市外の村では、移住先の都会の生活が苦痛になった約1500人が密かに戻り、現在では、(当局も黙認して)年寄りばかり約350人が暮らしているそうです。

 現在、チェルノブイリ原発では、3500人が事後処理や新しいシェルター造りのために働いています。ベラルーシとの国境を二度越えたスラブージッチという所に新しい町を建設し、そこから列車で通っているということです。

 事故から17年余り経ちましたが、まだまだ問題は山積していると、ユーリーさんは言い、四つの問題点を指摘しています。

 (1)「水の問題」=春の雪解け洪水で、汚染された植物や土壌から高濃度の汚染物質がプリビヤチ川を経てドニエプル川へ流れ込んでいる。これを防止するためプリビヤチ川にダムを造ったが、なお流入は続いている。

 (2)「森の問題」=汚染された植物から、風で汚染物質が飛散している。また、人が入れないから森が荒れ、山火事が起きやすくなっている。キノコは3年前より汚染濃度が十倍高くなっている。

 (3)「動物の問題」−−猪の胃袋から高濃度の汚染物質が検出されているが、猪や鹿は増えている。どうして生きていられるのか、専門家が研究している。

 (4)「環境の問題」=事故発生直後の消火作業や事後処理に使って汚染された大量の機械類、輸送横器、建設機械や大型ヘリコプターなどを何箇所にも埋めたが、かえって土壌が汚染され、汚染物質が流出している。

 同省では、何箇所かポイントを決めて環境モニタリングを行い、専門家がサンプリング分析を行っているということです。



チェルノブイリ原発を訪ねて 3
鳥肌立つ目前の「棺桶」
    廃墟の町に胸を痛める

 接待所でユーリーさんの説明を受けた後、ユーリーさんの案内で、いよいよ原発の視察です。旅行に出発する前の話では、原発が「遠望」できる所までということでしたが、原発が見えてからも、車はどんどん走り、とうとう構内まで入ってしまいました。

 「大丈夫かな」−お互い、顔を見合せました。放射線を浴びたらどうしようと思いました。が、発電所の構内では、大勢の人達が働いているのが見えました。「まあ、あの人達が働くことができるのだから、まず大丈夫だろう」と、自分で自分を納得させ、ユーリーさんの案内に任せました。

 そして何と、問題の第四発電ブロックまで100メートル足らずの事務所に招き入れられ、そこで美人の職員から事故当時の火災や消火作業の状況、破壊された原子炉の状況、現在の作業の状況、今後の処置計画などについて説明を受けました。

 これまではコンクリートのシェルターで破壊された箇所を固めて放射線の放出を防いできましたが、コンクリートシェルターが老朽化し、放射線が漏れる恐れが出てきたため、2007年までに、各国の援助(日本も含む)で、巨大な覆い屋根でスッポリと覆っていまおうという計画が進んでいるそうです。

 目の前に広がる第四発電ブロックは、まさに巨大なコンクリートの「棺桶」で、鳥肌が立ちました。こんなに近づいて大丈夫だろうかと誰しもが心配しました。

 かの美人職員は「許容量の範囲内だから心配いりません」と言います。もちろん、事務所内は遮蔽されているので大丈夫なのでしょうが、屋外のデジタルメーターは「400」(マイクロ・レントゲン)を示していました。(この数値が人体にどの程度の影響があるのか、うっかりして聴きそびれましたが)

 写真を撮ろうと、草むらに入りかけたら「草むらに入ってはいけません」と注意されました。草むらは道路上の何十倍も汚染されているそうです。いやあ、危なかったと胸をなで下ろしました。「大丈夫」と保障されていても油断は禁物です。

 この後、原発から西へ3キロのプリビヤチの町へ行きました。ここは主に原発で働いていた人達のベッドタウンでしたが、今は、人っ子一人いない廃墟となっています。雑草が生い茂ったメーンストリート、壁の崩れかけたアパート、市庁舎やホテルは、まるで「白骨」を見ているようでした。

 ここで胸を傷めたのは、開業直前に廃棄された遊園地でした。子供たちの歓声で賑わったはずの観覧車が虚しく空にそびえていました。朽ち果てたゴーカート、錆びついた遊具が悲しげでした。ここでも草むらの放射線量は400マイクロ・レントゲンを越えていました。

 次に訪れたパーリシェフ村は、原発から東南へ17キロ地点にあり、居住禁止地域です。ところが、この村に人が住んでいたのです。私たちが会ったミハイル・ウルパーさん (元原発職員)と妻のマリアさん(共に六八歳)は、一旦避難しながら、避難地になじめず、密かに戻って来たということでした。 



チェルノブイリ原発を訪ねて 4

 被爆の村に戻った老夫婦
     息をのむ汚染機材の墓場

 マリアさんは「避難は三日間だけと言われて避難しましたが、騙されましたよ。いつまで経っても村へ帰れという指示がこない。避難した町の生活になじめず、村が恋しくてなりませんでした。放射能のことは、まったく頭にありませんでした。ある夜、村人15人と一緒に、闇にまぎれて避難所を抜け出し、まるでパルチザンのように、捜索のヘリに見つからないように森の中に隠れ、粗末な筏を組んで川を渡り、何日もかかってやっと村に戻ることができました」と言います。

 現在は、当局も(お年寄りだからと)黙認しており、ユーリーさんたちが面倒をみているようです。

 二人は、ミハイルさんの年金160グリーブナ(約3700円)とマリアさんの年金90グリーブナ(約2100円)計250グリーブナ(約5800円)、それに畑から採れる野菜や果物で暮らしているそうです。

 「原発から近いのに、体に支障はありませんか」と尋ねると、「まったく元気ですよ。どこも悪くありません。時々、背中や足が痛みますが、これは歳だからです」という返事でした。ユーリーさんは「放射線を一定量以上浴びても、平気な人とそうでない人がいる」と言っていました。

 「一人息子がキエフの郊外に住んでおり、孫娘が一人いますが、(こういう状況なので)なかなか会えないのが辛いです」と、マリアさんは寂しげに微笑んでいました。

 この村の近く、ラッソーハ村には、事故処理に使って汚染された機材の野外廃棄場がありました。そこには十数機の大型ヘリコブター、数百台のトラック、消防車、タンクローリー、バス、トラクターなどが赤錆たまま放置されていました。余りの多さに息をのみました。まさに、「機材の墓場」そのものでした。これを見ただけでも、原発事故の損失の大きさが桁外れだったことが想像できます。

 

 キエフへの帰りに、接待所と三〇キロ地点検問所で被曝量の検査を受けました。全点「緑」のランプがついたので安心しました。

 被曝人口約300万人(うち子供約90万人)に及ぶ未曾有の大事故は、まだ終わっていません。数十万人の故郷を失った人々、後遺症に苦しむ人々がいます。私たちは、この大事故が私たちに何を問いかけているかを肌身に感じてきました。この旅行に「チェルノブイリ視察」を入れたのは大成功でした。 (終)



写真グラフ
チェルノブイリ原発を訪ねて

日本ユーラシア協会愛知県連は昨年8月「ロシア・ウクライナ友好の旅」を実施しましたが、参加者はウクライナ共和国非常事態省の特別の計らいで、一般旅行者として初めて、あの原発事故のあったチェルノブイリ原発を訪れ、原発事故の恐ろしさを目の当たりにするという貴重な体験をしました。17年余経った今も、黒々と目前に迫る事故現場の「四号炉」、雑草生い茂る廃墟の町、汚染機材の「墓場」パルチザンのようにして汚染の村に戻った老夫婦−−あの未曾有の事故の恐ろしさは言い尽くせません。そこで、一行が撮影した貴重な写真をみなさんにお目にかけ、原発事故が私たちに何を問いかけているかをお伝えしようと思います。

目前に迫る事故現場の「石棺」4号炉
あまりに近く、被爆が心配された
 

放棄された建物が、まるで白骨のようだった。
廃墟となったプリピャチ市を見る一行

村に戻ったミハイルさんとマリアさん

オープン直前の事故で、廃棄された遊園地で虚しくそびえる観覧車(プリピャチ市で)

非常事態省の現地事務所で美人職員から説明を受ける

汚染されたプリピャチ川と原発の遠望(10キロ地点から)

汚染して捨てられたおびただしい数のヘリやトラック、タンクローリーなどが散乱