「私とロシア語講座」
 日ユ協会愛知県達メーンイベントともいうべきロシア語講座は、受講生が先細りする傾向に歯止めがかかりませんが、今年こそ講座をより一層活性化させ、受講生を増やして往年の盛況を甦らせたいものです。そこで、読者のみなさんにロシア語への関心を高めていただくため、「私とロシア語講座」をテーマに、講師の先生方にロシア語講座に対する思いや意見、希望などを語っていただきました。ぜひ参考にして講座に積極的に参加されるのをお待ちしています。

初瀬 和彦先生

 ロシア語は人生航路の船
 講座に関わってからすでに四十余年になります。ソ連宇宙飛行士ガガーリンの宇宙飛行成功と同飛行士の来名歓迎の1960年代は講座の最盛期で、受講者が教室に溢れていました。新米の私は、驚きと戸惑いと不安の初舞台だったのを覚えています。受講者は工学部の学生、研究者が多かったと記憶しています。

 受講者の層も推移があり、大学生、学者から社会人へ、男性から女性へ、そして主婦、高齢者へと移る現象が見られ、現在は昼が主婦、夜が男女社会人で占められているようです。

 私は、「教えることは教わること」をモットーに、長年、受講者と向き合ってきたことで、教えたことより教わったことの方がはるかに多く、受講者に感謝してもしきれません。

 今、講座では文法、会話、ゼミナールのクラス別になっていますが、会話の基礎づけは文法であり、上達への道のスプートニクは「ゼミナール」であるというのが、私の控えめな持論であります。

 ロシア語は、私にとって人生航路の「船」であり、これからも、体の続く限り、この船に乗って航海を続けて行くつもりです。
丹辺 文彦先生
  
理想の授業に幸せを痛感
 ロシア語講座の「先史時代」とも言えるのは、東京・芝の旧労働会館で開催されたものでしょう。当時、大学生だった私は、ちょっと覗いてみたことがありますが、旧制高校の正課(戦後一部に設置)で学習した者としては物足りない感じで、途中から失礼してしまいました。

 日ソ親善協会(目ユ協会の前身)のロシア語講座は、代々木(現生協会館の位置)への本部移転に伴い、大いに発展し、地の利と時代の勢いを背景に盛況を迎えることになります。

 大岡昇平の勤めたという旧帝国酸素会社の西洋館風の木造二階建ての床は、訪れる受講生によって、しきりに軋んだものです。当時、高校の教員で、夜間クラス講師兼任の私が、重くて嵩張る録音機を持ち込むと、中年の紳士が自席から飛んで来てセットを手伝ってくれました。会期柊了後、の方は東京工業大学の教授だと判明、大いに恐縮したものです。

 1970年、広島大学に赴任しますが、日ソ親善協会広島支部には既存の講座があって、私は理事長として、来日したソ連観光団の応対に忙殺されました。

 77年に来名以来、愛知県連の講座を担当しておりますが、熱意ある長期受講生に、自分の理想に近い授業をさせて頂く幸せを痛感しています。ブームや消長に関係なく、今後もロシア語教育の灯を灯し続けたいと念じております。
難波忠清先生

クラスは私の修行の場所
 ロシア語と言えば、その学習に苦労したこと、辛かったことがまず、思い出されます。私の先生には「教えても教えても、なかなか理解できない」出来の悪い生徒に映ったことでしょう。補習で居残っていたのは、いつも私だけだったと記憶しています。

 「苦労した、辛かった」と言っても、べつに後悔しているわけではありません。教える立場になって、あの苦労がむしろ有益であり、私の宝だとさえ思えます。

 物事を理解し、マスターするきっかけは人それぞれなのです。私がある説明で一つのことが判ったとしても、隣の人が理解できたかどうかは別問題であって、私は自分の体験でそのことを理解しています。

 例えば、一つの文法事項をある方法で、ある一つの側面から説明した時、それを理解できない生徒がいたとしても、それは決して不思議なことではなく、生徒の出来が悪いわけでもないのです。

 ロシア語講座の私のクラスは、どう説明すれば判ってもらえるかを、日によって説明の仕方を変えたり、説明のポイントをずらしたりと、私が模索している場所であり、私が修行している場なのです。
山崎タチアナ先生

生徒たちの顔を見ると、苦しい病気も消え去る
 正直言って、ユーラシア協会でロシア語を教えはじめたのが何時だったか思い出せません。多分、十五、六年前のことでしょう。

 私の最初のクラスは土曜日の初級会話でした。最大の難関は必要な教科書が無かったことです。もちろん、教科書はあるにはあったのですが、文法と読解に重点が置かれ、口頭練習に重点が置かれていませんでした。そこで私は、生徒のためのテキストを自分で作ろうと決心しました。こうしたテキストは今も残っています。

 今では私は三つのクラスを受け持っています。火曜日の上級クラス、金曜日夜の初級会話クラス、隔週土曜日のゆっくり学習クラス(シニアクラス)です。今ではこういった全てのレベルのテキストが容易に選ぶことができます。もちろん、いつも教科書の選択が上手くいくとはかぎりませんが。

 これらの年月の間、私は仕事で次のような規則に従っていました。できる限り生徒と会話することです。私は、生徒の生粋のロシア語の発音より自分の考えを外国語で表現する能力の方が大事であると思います。もちろん、そのためには広い範囲の語彙が欠かせないし、自分の語彙を絶えず補充することが必要です。

 私は私の生徒が好きです。この横会に、みなさんにお礼を述べたいと思います。実は、最近私は色々な病気に苦しんでいます。喘息、アトビー性皮膚炎、心臓肥大などです。時には外出するのがとても辛いことがあります。

 でも、仕事にやって来て生徒の顔を見て授業を始めると、全ての病気がまるで消え去ったようになり、私はいつも楽しくなり、興味が湧いてきて、知らないうちに授業時間が過ぎてゆくことがしばしばです。

 これらのことで私は、みなさんにたいへん感謝しているのです。
服部 和 先生

文法は大事だと実感
 文法の問題で生徒さんを苛めていると、ロシア語を習い始めた頃を思い出します。ロシア語が大好きで、キリル文字を見ているだけでも楽しい、でも文法の勉強は嫌いで、もっぱら「習うより慣れろメソッド」を実践していた私。でも今は、やはり文法はおろそかにしてはならないと実感しています。

 講座の初級、中級は文字を覚えることから始まって、とにかく暗記しなければならないことが山のようにあります。「どうやったら、早く覚えられますか」と、よく聞かれますが、そんないい方法があったら教えて欲しい!おしゃべりな私の生徒さんたちもロシア語でしゃべって欲しい。授業中、黙って座っているのは許しません。

 その試練に耐えて、最初は文字も読めなかった人たちが、中級の終わり頃にはロシア語で会話ができるようになるのを見るのは本当に楽しいものです。

 優等生ではなかった私には、生徒のみなさんのご苦労がよく分かります。一日の仕事を終えた後で、講座に通ってこられ、名詞や形容詞の格変化や数詞と格闘される受講生のみなさんを尊敬し、心から応援しています。
アンナ・メンショーワ先生

生徒から日本を学ぶ
 5年前、家族とともに来日して、私はユーラシア協会でロシア語を教えないかとのお話をいただきました。そのお蔭で私は、ロシア語を学ぶみなさんと知り合う機会を得ることができました。

 授業では、時々おしゃべりをして、生徒のみなさんから私自身が日本の歴史や文化、伝統について、実に様々な興味深いことを教わりました。

 ロシアの作家の作品を読みながら、読んだ内容について話し合い、また、生徒のみなさんから質問を受けるお蔭で、私も新たにあれこれの作品を理解することができます。

 日露両国の文化交流支援のために尽くしてくださるユーラシア協会の方々すべてに感謝いたします。私がユーラシア協会に出かけると、まるで実家に帰った時のように温かく迎えてくれます。そして私には母国語で話せるチャンスが生まれるのです。

 もし、私に何か困ったことが生じても、新栄町の「小さな家」に行けば、助けてもらえることが分かっているので
アリビーナ・ブレンコーワ先生

講師の自由な裁量に驚き
 私がこの協会で働き始めたばかりの時、講師のためのプログラムや計画があり、それぞれの講師が教材を自分の裁量で自由に選べるということが、かつて中学校の教師だった私を驚かせました。初めは、これがかえって困難なことでしたが、今ではメリットです。このお蔭で、生徒たちに会話力をつけさせ、私が思う自由なテーマでいつも話すことができるようになりました。

 今、私は二つのクラス、入門クラスと会話クラスを教えています。外国語を話すことは、なかなか困難なこで、それなりの努力をしなければならないことは、私自身分かっています。だから授業では生徒たちが、ごく普通の話し相手と感じられ、それぞれがどんな問題にも自分の意見を述べることができるように親しく、寛いだ状況を作ろうと心掛けています。

 私は生徒たちの勇気、忍耐、知識欲に深く尊敬しています。そして彼らのロシア
市川春季先生

ロシア人への日本語講座
 私が日ソ協会の主催する初瀬先生のロシア語初級講座の門を叩いてから、私とロシア語講座との関わりは、もう30年近くになります。当時の初級クラスは受講生が30名以上もいて、民主会館のあの大教室が、4月の開講当初は満員だったことを記憶しています。
 
もっとも、3カ月の初級コース(当時、コースは初級、中級、上級の3コースしかなく、すべて3カ月単位で、初級コースのみ週2回の授業)が終わるころには、受講生は数名しか残っていませんでした。

 その後も、この協会のロシア語講座の諸先生方にはいろいろお世話になり、特に初瀬先生は、私の最大の師匠だと言っても過言ではありません。

 ここ7、8年前からは私も講師団の一員に加えさせていただき、潜越にもロシア語の授業を担当してきましたが、2002年4月からは、ロシア人に対して日本語を教えることになりました。

 日本人と結婚して名古屋や名古屋市近郊に在住するロシア人が増えている状況の中で、在日ロシア人に対して日本語を教える活動も重要な友好活動のうちの一つであると思うようになりました。